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美穂の乱心

 木下家のドアチャイムが鳴った。それも、厭がらせのように乱打されている。慌てて清世が応対に出た。開けた扉の向こうには、棠野の娘の美穂が立っていた。いきりたつように、まるで背面から炎の幻影でも見えそうなほどの剣幕である。
 彼女は無言で清世を押しやり、家内へ上がり込んだ。
 居間へずかずかと這入った彼女は、ソファーで寛ぐ当家の主人、亮二を見るや否や、
「リョウ先生の馬鹿!」
 と怒鳴りつけた。
「なんだ、美穂か。いきなり馬鹿とは何事だ」
「聞いたよ、目が見えなくなったって」
「ああ、そのことか」
 美穂は拳を握りしめ、亮二の肩あたりに振り下ろした。
「痛ってえな、何すんだよ。せめて手加減しろ、老人相手に」
「馬鹿、馬鹿、馬鹿、死んじゃえ」
「痛い痛い、なんなんだよ、もう」
「美穂ちゃん、どうしたの。そんな殴るの、やめてあげて」
 おっかな吃驚といった様子で声を掛けた清世にも、美穂は拳を振り上げた。しかしその拳を振り下ろす訳にもいかず、悔しげに口元を歪めた。
「清世さんの馬鹿! 清世さんの所為だよ。失明するなんて有り得ない。清世さんの所為だ」
「いい加減にしろ、清世に落ち度はない」
 何時になく強い口調の亮二の言葉に少し怯んだ美穂だが、それで余計に火に油が注がれた状態になり、
「じゃあ、リョウ先生が悪いんだよ。馬鹿、馬鹿、馬鹿。目が見えなくなったらなんにも出来ないじゃん。バンドも出来ないじゃん。どうすんのよ、どうやって生きてくのよ」
 平手でばんばん叩かれても殆ど動じず、
「どうやってでも生きてくよ」
 などと答え、飽くまで冷静な態度の亮二に美穂もだんだん落ち着いてきた。
「平気なの?」
「平気だよ」
「なんで?」
「なんでって、如何にもならんことに抗ったってしょうがないだろ」
「……馬鹿」
「馬鹿かもな」
「そこが好き」
「そこが好きなんだってさ」
「よかったですね」
「おれが独身だったら、美穂を嫁にしてやるよ」
「やだね」
「あら。美穂ちゃんは木下さんのお嫁さんになりたかったんでしょう?」
「今はもう、違うもん」
「えー、そうなの? 亮二、ショック。この浮気者が」
「浮気じゃないもん、本気だもん」
「相手は何処の何奴だ」
「うーんとね、大学の助教授で鳥類学の研究してるひと」
「はあー。そんなんと何処で知り合ったんだよ」
「そんなんとか云わないでよね。ライブハウスで知り合ったの」
「鳥類学者と、ライブハウスで。清世、そんなことはよくあるのか?」
「聞いたことがない話ですね」
「だよな。あんなところにはサブカル屎野郎しか来ない」
「それは酷すぎます」
「事実だ」
「違うよ」
「あ、そ」
「なんか気が削がれちゃったよ」
「削がれてよかったよ。あの勢いじゃ、殺されかねんかった」
「殺しはしないけどさ、あったま来てたから」
「黙ってたのはおまえにだけじゃないよ」
「清世さんにすら云ってなかって聞いたから、余計に腹が立ったの。一番大事なひとに一番重要なことを隠すって、サイテーじゃない?」
「そうだな」
「随分、素直じゃない」
「本当にそう思うからさ」
「反省してるの」
「してる」
「そこら辺りがリョウ先生のいいところだよね」
「蟻が蝶」
「馬鹿じゃないの」

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