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貧困日記、弍。

 滅多に外出しないのだが、必要に応じて己れを鼓舞し、なけなしの気力を振り絞り、玄関を出る。
 此処まで根性を入れて出掛けるのは、『本当の』用事がある時だ。本当の用事とは、図書館の本を今日までに返さなければいけないとか、医者の予約が入っているとか、定められた時間に公的機関へ赴かねばならない場合である。
 幸い、そうした外せない約束、予定は、殆どない。八月に借りてきた本も先日、雨の降る中、地下鉄を乗り継いで返却に行き、誘惑に駆られながらも、何も借りずに手ぶらで帰宅した。
 わたしは昔から外出すると「ハレ」の気分になってしまい、譬え近所の散歩であろうと土産を持ち帰りたがった。子供の頃なら蓮華や露草、すべすべの丸い小石、誰かが忘れたミニカー。
 長じてからも、映画館やライブハウスへ行くという目的があるにも関わらず、せっかちなので早めに行動するが故に時間が余り、要らぬ「自分への土産」を、後で省みることすらしないのに、その時だけの快楽で購っていた。
 自分で云うのもなんだが、わたしの可愛らしいところは「自分の土産」だけではなく、他人への土産も選んでいたことである。要するに、外出したことにより日常から切り離され高揚した感情が、まっすぐ購買慾へと繋がっていたのだ(まったく可愛らしくない)。
 端た金しか遣わなかった若い頃は、微笑ましい習慣と云えたであろう。出掛けたついでに小物やハンケチを買って帰るのだ。罪はない。
 しかしこれが昂じて、お金を使うこと自体に快感を覚えるようになった。特に慾しい訳でもないのに、その時はどうしても手に入れたいと思ってしまう。狂おしいほどに。
 兎に角わたしは、強い依存癖がある。
 金銭にも物にも、ひとにも環境にも。
 これに自傷癖が加わっているのだから、己れが苦しむと判って尚、歯止めが効かないまま暴走してしまう。一時はストレスで、ほぼアルコール依存症のような状態だった。十代の頃から過食嘔吐が止まらず、現在も苦しんでいる。
 他人はきっと、やらなきゃ済むことなのに、どうして苦しむ必要がある。金銭的にも厳しいのに、何故、酒や喰いものを夜中に買いに走るのだ——と思うだろう。
 わたしもそう思う。ブレーキを掛けられるものなら掛けている。けれども、足元にはアクセルペダルしかないのだ。めくるめく恐怖と快感、同時に襲ってくる後悔と自己嫌悪。そんな竜巻に翻弄されているのだ。

 救いなのは、殆ど外出しないことである。
 現在のような状況になるまでは、「引き篭もり」は忌むべき行為であった。家族や社会の厄介者であり、蔑まれて当然の存在だったのだ。それが今や、好むと好まざるに関わらず、政府からのお達しで「不要不急の外出」は(建前として)自粛せねばならず、飲食店はアルコールが出せないので軒並みシャッターを下ろしている。
 もともとひとりで居るのが好きで、外で遊ぶより家の中で本を読んだり絵を描いたりするのが好きだった子供たちは、大人になったら「出来ない奴」と管理社会から弾き出された。
 まるでクリスマスの歌にある、トナカイのようではないか。虐げられた者たちは今、真っ赤な光で周りを照らし、ひとりで大丈夫なのだと、安心出来る狭い部屋に篭っているだろう。
 それが永遠に続く筈がないことなど判っている。
 これはひと時の悪夢かも知れないが、救いの幻かも知れない。どちらも泡のように消えてしまう。
 でも、それまではこのまま、保留にしておこう。

 料理が得意な訳でもないし、美味しいものを食べたいという慾求も希薄だが、夜中、無性に何かを作りたくなることがある。
 この度、制作したのは「ひたし豆の炒り浸し」。ひたし豆というのは宮城県特産のもので、主に乾燥した状態で出廻っている。最初に買ったのはドン・キホーテだった。気に入ったので、アマンゾで何度か購入した。
 引き篭もり生活では、こうした乾物などの備蓄食材に救われている。

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