人物裏話——一子と圭一と光太郎篇。
これは2015年5月6日、某ブログで公開した記事である。くどいようだが、此方に掲載している文章の殆どが過去のもので、古いのになると二十年以上前だったりする。悪しからず。
彼らの話は以前開設していたホームページで公開したものだが、今日(昨日)アップした『いつか、きっと』は最近書いた。これまでのものは、『水彩絵の具で描いた部屋』『痛い魚たち』『痛くない呪文』『あんたが來さうな頃の風鈴』。
この「痛い」を最近の若者言葉で捉えた若い子が居たが、彼女は名古屋を愛知県の県庁所在地だと謂うことを知らず(と云うか、何処にあるか知らなかった)、亮二の読み方も判らない子だったので、あまり気にしなかったのだが、これは「イタイ」ではなく、「痛々しい」と謂う意味で捉えて慾しい。
まあ、読めば「イタイ」方の意味ではないことくらい判るだろうが。
圭一の弟、光太郎は十五才の時に母の運転する車に乗って、交差点で信号無視の車に突っ込まれ瀕死の重傷を負い、脳に損傷を受け知的障碍になってしまった。その突っ込んだ車を運転していたのは、圭一の実の母親だった。
彼らの父親は、圭一の母親に隠れて光太郎の母と不倫の関係を結び、圭一が十二才の時に離婚した。圭一の母は徐々に精神を病んでゆき、ついには最終的手段をとった。彼女は助かったが、完全に発狂しており、罪に問うことは出来なかった。
圭一は、もう、控えめと謂う言葉では追いつかないくらい控えめな性格をしているので、『痛くない呪文』以降の話はなかなか書けずにいたが、どうなるかはだいたい想像がつくのでたまに構想を練ってはいた。
一子は同じジーパン屋に勤める小杉瑛子と暮らしていたのだが、彼女が金沢本社に転勤することになり(詳しくは『阿呆と山猫』にて)、家賃の負担について悩んでいた。まあ、そこに圭一はつけ込んだのである。悪い云い方をすれば。
ジーパン屋の本社が金沢にある、と謂うのは、わたしが二度目に勤めた処が実際そうだったのだ。金沢には大きなジーパン屋のチェーン店が二社ある。気になる方は調べてみて下さい。
何故か金沢が話の中に出てくるが、特に縁がある訳ではない。若い頃に家族で旅行して、蟹づくしの料理を国民宿舎で喰って、翌日湿疹が出来たことはあるが。その蟹は旨かった。
基本設定
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美野一子(よしの いちこ)
7月7日生まれ。
A型。
158センチ、45キロ。
男性が苦手だったが、特に理由がある訳ではない。嫌悪感と謂うより、恐かったようである。
ジーパン屋に勤めて以来、スカートなど穿かなかったが、圭一に贈られてからは休みになると穿いていた。いつもジーパンしか穿いていない女にスカートを贈るとは、圭一もむっつり助平な野郎である。
生田圭一(いくた けいいち)
9月15日生まれ。
A型。
182センチ、61キロ。
美大に通っていたが、弟の為に退学。知人の伝手により、在宅で出来る広告デザイナーの職にありついた。
生真面目な割にはスモーカー。
奥手で控えめだが、大学へ行っていた時にはちゃんと恋人が居た。二十二でひとりつき合った経験がありゃいいんじゃないのか? 何人とつき合いたかったのだ。
生田光太郎(いくた こうたろう)
10月19日生まれ。
A型。
173センチ、47キロ。
事故に遭うまでは、快活でよく喋る子だった。圭一のことも普通に兄さんと呼んでいたが、意識が回復し、知能が幼児並みになってしまい、兄を「けい」と呼ぶようになった。
赤いものを恐がるのは、事故で死んだ母親の姿を朧げに記憶している所為。尾長源一郎のお陰でその「赤色恐怖症」は克服された。