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貧困日記、2。

 はっきりしない梅雨模様で、晴れた日が続くと思えば雨が降り、曇っているかと思えば晴れ、そうかと思えばまた雨が降る。こんな天気では、車を持たない身なので出掛ける気にもなれない。そもそも用事がないのだが。
 外出しないと金を使わなくていい、というのは昔の話で、今や自宅から一歩も出ずとも散財することが可能である。指一本で買いものが出来るとは、三十年前には考えも及ばなかった。因みにわたしが書く話の中に出てくる携帯電話は、スマートフォンではない。多くの話を書き始めた頃、そんなものは影も形もなかったのだ。
 ブログなるものもなかった。やっと個人が自分の発言を公表する手段が整ってきつつあったものの、それは飽くまでも個人間の通信でしかなく、公に自身の意見を開示する手段は、知識がある者のみに限られていた。
 しかし、電脳の時代は進化した。玄人から素人へ。誰でも出来るとは謂えまいが、ある程度の知識があれば、そうした場所を儲けることが出来るようになっていった。
 凝った形を装いたい者はホームページビルダーなどを使い、そうしたものを扱い熟なせない者は無料のホームページを利用したのだ。それらにはコメントを送信する機能がないので、そうした無料のものには公私問わず、掲示板が附随していた。
 そもそも当時は無線LANすらなく、ダイヤルアップ回線でインターネットを利用していたのである。
 当然のことながら、ばかすか使うとNTTの通話料がどえらいことになった。ので、夜の十一時からテレホーダイというサービスがあり、個人で楽しむ素人はその時間帯まで我慢していたのだ。我慢というか、パソコンでしかインターネットが利用出来ないので、今のように猫も杓子も世界規模の発言の場を得ている状況とはまるで違う。
 電子世界は日進月歩どころか、目まぐるしく進化しすぎて訳が判らないほどだ。
 それはさておき、わたしが家の中に籠って何をしているかといえば、最近は専らゲームである。何度か書いているが、とびだしあつまるどうぶつの森を、阿呆のようにやり続けている。これだけやれば元は充分取ったであろう。
 子供の頃にテレビゲームをまったくやらなかった反動なのだろうか。熱し易く冷め易いわたしが、半年以上も熱中するのは珍しいことである。大抵は一、二ヶ月もすれば飽きてしまう。凝り性なので、必要なものを揃えてあれこれやった挙句に飽きるのだから、勿体無いにもほどがある。
 これまで継続している趣味は、ものを書くことと写真くらいだ。このふたつは随分長く続けている。創作物を書くことなど、小学生の頃からだ。気が遠くなるくらいの年月である。職業ではないので絶え間なしに創作をしている訳ではなく、思いついたら書く程度なのだが、趣味だからそれでよかろう。
 昔は鬱状態になると何も出来ず、出来ないことで思い悩み、更に鬱が悪化した。この躁鬱病も、二次障碍だったのだと今頃になって判った。判ったところでどうにかなる訳でもないので、いつ判明しようと構わないのだが、やはり実態は知っておいた方がいい。対処の仕様が違ってくるからだ。
 外出せずとも買いものが出来るのは今や当たり前で、わたしのような情弱でもそれくらいは活用する。どちらかというと活用しない方がいいのだが、節度のない人間は安易な方法に飛びついてしまうのである。
 実際には、買いものがあまり好きではない。日常的な買い出しは当然するけれども、ニュアンス的に横文字で表現する「ショッピング」が苦手なのだ。スーパーマーケットなどで買いものをする時でも、目当てのものをさっさと見つけて店を出る為、滞在時間が非常に短い。慾しいものが見つからなければ、すぐ店員に訊ねる。
 わたしはせっかちなのだ。
 どれくらいせっかちなのかというと、若い頃、名古屋の今池にあるシネマテークという単館劇場、今で云うミニシアターに通い詰めていた。県外からなので、片道一時間以上かかる。それなのに、朝イチの回を観に行くのだ。
 必要以上に早く支度をし、電車の時間まで余裕がありすぎ、それを待っていられないので家を出て、早めの電車に乗り、地下鉄を経由して今池に着いても、まだ出勤するサラリーマンが歩いているような時間である。コンビニエンス・ストアーがそこらじゅうにある時代ではない。
 仕方がないので常に持ち歩いているコンパクトカメラでそこら辺を撮りながら時間を潰し、開場五十分前になったらシネマテークの扉の前へ行く。
 開いていない。
 四十分前くらいにやっとスタッフが来るのだが、準備があるのですぐには入れてもらえない。通路で待っているのはわたしひとりである。なにしろ開場は開演の三十分前なのだ。つまりわたしは映画が始まる二時間前に、映画を観る以外やることもないのに現地へ到着していたのだ。
 馬鹿としか云いようがない。
 これは当時のわたしが特別精神的におかしかったのではなく、それからもずっと早めの行動をするのは続いている。此処数年で四回ほど転々と仕事に就いたが、どの場合も勤務時間の三十分前には目的の建物に居た。余剰な時間で何をしていたかというと、休憩室で本を読んでいたのである。
 せっかちすぎて早く支度をしてしまい、家を出るまでの時間を潰すことが出来ず、本でも読もうかと頁を開いても落ち着いて文字が追えない。で、居ても立ってもいられず出掛けてしまうのだ。結局、行った先で本を読んでいるのだから、ゆったり出来る家で読めばいいものを、と自分でも思う。
 しかし出来ない。
 これはどうも、せっかちというより発達障碍の典型的な症状らしい。集中力と注意力と判断力がないので、前後の見境なく早廻しのように行動してしまう。この一足飛びに行動する癖は、他のことでも現れる。
 文章を書き写す際に、視覚ではちゃんと認識しているのに書くべき文字の次の文字を書いてしまう。これにはほとほと自分が厭になった。今はもうそんなことをする必要はないのだが、この悪癖で履歴書を一枚書くのに未開封の七枚パックをすべて反故にし、急いで近所の百円屋へ自転車で駆けつけ二パック買うも、最終的に残ったのは一枚だけだった。
 要するに、十九枚書き損じた訳である。封筒と写真を貼るシールだけが虚しく残った。
 そしてうちにはテレビがないのだが、見たことがない訳ではない。当然、実家にも連れ合いの家にもあった。そのテレビ番組を集中して見ることが出来ない。子供の頃は普通に見ていたような気もするが、思い返してみるに、好きな本を読む時ですら余所ごとを考えていたのだから、テレビ番組などもっと落ち着かずに見ていた筈だ。
 落ち着かないといっても立ったり座ったりを繰り返す訳ではなく、炬燵の上にあるものを弄ったり新聞を眺めたりと、ひとつのことに集中しない。これに気づいたのは、二、三年前に骨折して実家で療養していた時である。
 別居していたアパートでも、実家を出てからのアパートでも、テレビ回線は引いていなかった。なので、一日中テレビを見ている環境というのに慣れていない。明るいうちは食事をする時だけニュースの音を聞いており(テレビに背を向けているので)、あとは自室で階下の音に耳を澄ませながら(認知症の母の為に)本を読み続けていたのだが、晩飯以降のテレビ番組にやられてしまった。
 あれは中毒性がある。
 どんな番組をやっているのかまったく知らないので、適当にチャンネルを合わせていたのだが、一週間ひと通り見ると、何時にどんな番組を何チャンネルでやっているのか覚えてしまう。新聞があるのだから覚える必要はないのだが。
 テレビを毛嫌いしているのではなく、寧ろお笑い系の番組は好きなので、自らチャンネルを合わせ視聴するようになった。が、楽しんで見ているのに、手元からは雑誌や料理本を離さないのだ。読み尽くすと別の本を用意する。雑誌と料理本に限っていたのは、これならどちらにも意識を向けられるからだ。
 まるでふたつのことが同時にやれる器用な人間のようだが、そんなことはまったくない。どちらにも集中していないからこそ出来るのだ。わたしからすると、複数のことを並行して「きちんと」熟せるひとは、神の域に達しているのだと思える。
 集中力がなく、何かをやっていても、ふと思いついたことを即座にやらねば気が済まない。没頭していれば何かを思いつくことなどない筈なので、どんなことをしていても、脳の半分くらいは別のことを考えているのだろう。
 兎に角、何か思いついたら脊髄反射のように行動へ移してしまう。移せるのならまだいい方で、集中力もなければ記憶力も覚束ないわたしは、譬えば「あ、そうだ」と読んでいた本を閉じて立ち上がり、「あれ、なんの為に立ち上がったのだろう」と、コントのようなオチをつけてしまうのだ。
 このことで、毎日わたしは自分に怒りを覚えている。声に出して「馬鹿野郎」と云ったりもする。記憶を司る海馬の機能に問題があるのか、海馬そのものが欠損しているのかも知れない、とまで思ってしまう。
 特に短期記憶が無きに等しいので、殆ど認知症と同じである。認知症などと生ぬるい言葉ではわたしの感情が収まらない。はっきり痴呆症と云ってもらった方がいい。老人までは達していないが、記憶力は呆けていないひとよりヤバい。
 長々と書いたが、発達障碍の症状を書きたかったのではなく、自宅に居ながら利用出来るネット通販で本を購った、と云いたかったのだ。前振りが長すぎた。
 飯を喰っている時でも活字を手放せないわたしであるが、此処のところずっと食事の友は料理本である。そうしたものを己れの調理に活用するかというと、まったくしない。ただ眺めて楽しんでいるだけである。
 これは昔、買い漁って宝のようにしていた画集や写真集と同じ感覚なのかも知れない。それらは押し並べて高価だが、料理本はそこまで高くない。オレンジやレタスなどはかなり安い。余計な記事が鬱陶しいけれども。
 料理研究家の本も多く所有しているが、気に入らないのは大抵の場合、巻末に菓子の作り方が載っていることである。これは許し難い。菓子の作り方なら菓子の本に掲載しろ、と云いたい。何頁かが、わたしにとっては無駄以外の何ものでもないのだ。
 料理本を飽きることなく眺める割に、わたしは食にさほど貪慾ではない。貪慾どころか、日々の飯など適当で構わないと思っている。情報を漁り、美味しい店を開拓し、そこで舌鼓を打ちたいなどと思った例しがない。
 よく、食費を節約するには自炊が一番だと勧めるひとが居るけれども、そういうひとは一体どんな食生活を送っていたのだろうか。外食といっても色々ある。三食吉牛なら、ひとり暮らしで自炊するより簡単で安い。台所を使う必要もないし、ひとり分がちゃんと出てくるし、洗いものどころか食器すら必要ない。
 自炊で家計が楽になると主張するひと達は、もしかしたら喫茶店やカフェーなどで午飯を喰い、夜は呑み屋で二千円くらいの飯を自分に奢っていたのではあるまいか。それなら納得がいく。ハンバーガー屋でセットメニューを頼んでも、七、八百円はするのだ。そらまあ、家で米を炊いて漬物を齧っている方が、なんぼも安かろう。
 昨今の旨いものを食べたい慾が旺盛な人びとの感覚が、わたしにはよく判らない。そうしたひと達の傾向は、月に一度、普段は食さない味覚を堪能したい、とか、週末くらい炊事から解放されてファミリーレストランで食事をしたい、という、ささやかな庶民の願いとは違うような気がする。
 美味しいものをしょっちゅう喰っていたら、難有みが減るのではなかろうか。旨いものを常時喰っていれば、それはもう、日常の飯ではないか。わたしにとって美味しいものとは即ちご馳走で、ご馳走はハレの日に食べるものである。それをケの位置に持ってきてはいけないのではなかろうか。
 以前、初デートがファミリーレストランだったのでドン引きした、という案件が話題になったが、奢ってもらう側が何を贅沢なことを吐かしておるのだ。高級なものが喰いたかったら自分の金で喰え。どうしてもデートで高級なところへ行きたいのなら、そこで喰いたい奴が奢るのが筋であろう。
 インターネットを利用してまで彼氏の所業の断罪を世間に求めたこの女性は、そもそも相手のことをどう思っていたのだろうか。何処に惹かれて一対一で会う気になったのか。見た目か、性格か、はたまた職業か。職業のみで惹かれていたのならば、サイゼリヤではがっかりするのも致し方ない。
 それにしても男の懐具合を当てにするとは、まるで娼婦ではないか。それならはっきり、性的奉仕をするからそれに見合ったレストランへ連れて行ってちょうだい、と宣言すればいい。
 しかし男の方は、敢えてそこを選んだのかも知れない。所謂それは試金石で、相手の反応を見るつもりだったのかも知れない。もしくはその男からすると、サイゼリヤ程度の女だと看做されていたのかも知れない。
 わたしが元連れ合いと付き合っていた頃、会うのは殆ど向こうの家で、スーパーマーケットで食材を買い、季節など無視して鍋を作っていた。たまに大須などへ行くと、自販機の飲みものとたこ焼きを買って、立ち喰いをする。贅沢なことは一切しなかった。
 相手はふたつ年下で会社勤めをしており、当時わたしは無職である。
 後にデート話をする際これらのエピソードを語ると、「ありえない、サイテー」「なんで我慢してたの」等々と、ボロクソに云われた。
 しかし、わたしには遅きに交際したはじめての相手であり、こうしたしょぼくさい出来事も楽しかった思い出なのだ。貧乏くさい食事以外にも、外で食べる時はだいたいが割り勘で、電車賃など払って貰ったことがない。
 それでも結婚したのだ。離婚した理由はケチだからではない。

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