春よはるよ
ぼくの同居人は秋出春世といった。「あきいではるよ」と読む。秋で春の世というのは、なんとも本人の捻くれた性格通りの名前だ、とつくづく思う。今はぼくと同じ沼里姓なのだが。
言葉遣いは乱暴だけれども、面倒見のいいおひと好しの男で、可愛いかわいい彼女が居る二十三才の青年だ。身長一六〇センチ、体重四十七キロ。伸ばした髪が揃っていないのは、自分で切っている所為である。因みに靴のサイズは二十四センチだ。
はっきり云って、男としては小さい。が、態度はでかい。同じ年なのだが、ぼくの方が数ヶ月前に生まれたことから、戸籍上は弟である。
的確な説明をするのは難しいのだが、ぼくは沼里漣雅といって幼い頃に父親が事故で死に、母はぼくを連れて実家へ戻った。が、その母もその数年後にやはり事故で亡くなった。何うにも不注意な親たちである。
そしてぼくは、母方の祖父である沼里新造に引き取られた。だから、「お父さん」と云えと請われてそう呼んでいるが、沼里新造は祖父なのだ。ぼくの場合、直系なので後見人と謂う形にすればいいものを、祖父は何故か養子にした。そして春世は、はっきり云って、赤の他人である。
彼はぼくの亡くなった母親の親友だった女性の息子で、そのひとが暴力的な亭主に愛想を尽かして人生を果無み彼を道連れに死のうと思ったのだが、よく考えてみれば子供にはなんの罪もない。
そして、ぼくの死んだ母親に宛てて、
「この子にはなんの罪もありません。わたしが居なくなった後、施設で苦労をさせたくはありません。どうか、良い家庭の養子にさせてやって下さい。ただ、今の家人の許には戻さないで下さい。我が侭なお願いですが、どうぞ哀れな女の最後の言葉を聞き入れて下さいませ。かしこ」
と謂う置き手紙を残して、そのひとは自ら命を絶ってしまった。かしこ、で済まされる内容ではないと思うが。
そして、春世は小学校一年の時に祖父の家にやって来た訳だが、彼はぼくと同じように春世も養子にした。養子を取るのが趣味だったのだろうか。この時、ぼくの母はまだ存命していたので、養子としては彼の方が先輩である。養子に先輩後輩もないだろうが。
沼里家に来た当初の春世は、ひとことも喋らず、食事も碌に摂らなかった。女の子のような外見の所為もあって、物静かな性格なのだとばかり思っていた。が、それは大きな勘違いだった。
母親を突然喪ったショックと見ず知らずの他人の家に引き取られた状況に慣れてくると、彼は徐々に本性を現した。何故かぼくだけに。だから、祖父も祖母も春世のことは、外見通り女のようにおとなしく控えめな性格だといまだに思っている。
ぼくとふたりで居る時の言動を知ったら、祖母など泡を吹いて仆れてしまうだろう。彼がぼくを蹴り飛ばして、「ざけんじゃねえ、この糞野郎が」などと云っている場面に遭遇しなかったのは、戸籍上の両親にとっては幸いだったのかも知れない。
女のような顔をした春世は、引っ込み思案なぼくと違ってひとから好かれ、友人も多かった。男も女も寄ってきたが、当人は粗暴な人間なので気に入らない者は情け容赦なく排斥した。泣かせた女の子は数限りない。殴った相手も山のように居る。その裡には、同性愛的感情を持って近寄ってきた男も居た。
その人物がどんな目に遭ったのか、考えるだに恐ろしい。生きていることを希うばかりである。
+
「彼女ぉ、ちょっといいかな」
声を掛けられた人物は、相手をちらっと見て曖昧な、見る者に依っては意地の悪そうな微笑みを浮かべた。声を掛けた如何にも客引き関係の髪を染めた男は、その「意地の悪そうな」部分を感知しなかった。鈍いのか、厚顔無恥なのか、両方とも兼ね備えた馬鹿だったのかは知る由もない。
「ねえ、そんなに肌がきれいなんだから化粧しなくても今はいいかも知んないよ。でもさあ……、んー、彼女幾つ? ハタチくらい? 肌のお手入れはねえ、今、若い時にしないと駄目なんだよ」
男はエステティック・サロンのマニュアル通りに捲し立てた。相手はにっこり笑って、黙ってそれを聞いていた。男は無口な可愛らしい娘だと思い込み、図に乗って鞄からパンフレットや試供品などを取り出しあれこれ説明を始めた。
「ハルくーん。ごめんねえ、遅くなって」
そのふたりに駆け寄ってきた女の子は、息を切らせながらキャッチ・セールスマンではない方の人物に声を掛けた。
「いいよ、この兄ちゃんで閑潰し出来たから」
その声は、紛う方なく男のものであった。『彼』は、男の手から試供品だけ取りあげて、駆け寄ってきた女の子に手渡した。
「なあに、これ」
「知らねえ。こいつがくれるってさ」
ぽかんとしたまま突っ立っている勧誘の男を尻目に、ふたりは雑踏へと消えていった。
+
「またやったんだ」
「他人聞きの悪い云い方すんなよ。向こうが勝手に寄ってくるんだから」
先ほど女に間違えられた青年は彼女に邪気のない(ように見える)笑顔を向けた。
「髪の毛、切ったら?」
「やだね。生命力が衰える」
「なに馬鹿なこと云ってんのよ。そんな長い髪してるから勘違いされるんじゃない。力づくで強姦されたらどうすんの? 男だって判っても、勢い余ってやられちゃうよ」
「下半身ずる剝けにされる前に、どつき仆して逃げるよ」
彼がかなり暴力的な人間であることを、彼女は改めて思い返した。そして、自分に凄く優しいのに、と不思議に思う。口が裂けても云わないが、「こんなに小柄なのに」とも同時に思っていた。
そもそも彼は、外見通りに華奢で、筋肉質にも見えず、寧ろ弱々しい印象を与える。恐らく、そう見えるように細心の注意を払っているのであろう。無意識のうちに。或る意味それは、最大に有効な保身の術である。
彼女が彼と知り合ったのは、母親と離婚した父が実家まで追い出され、ひとり侘びしく暮らし始めたアパートの管理人をしていたからである。挨拶をする為に行った時に出てきたのは、背の高いおとなしそうな青年だった。
「ああ、304号室に入居なさった……、井上さんですね」
書類を確認しながら青年は云った。「娘の未歩です」そう云いながら、こんな若いひとが管理人なのだろうか、と疑問に思った彼女であった。
後に、その背の高い青年と、もうひとり(はじめは雑用のアルバイトだと思っていた)の青年は、アパートの持ち主の息子だということが判った。その「もうひとり」を見た時、「管理人の子の彼女かな」と未歩は思った。が、二人の会話を聴くともなしに聞いていたら、誤解は解けた。
背の高い方の青年は、「レンガ」といい、もうひとりの子は「ハル君」と呼ばれていた。ただ、会話なので、ふたりが声を発するのは当然のことである。どちらも男の声であった。彼女は背の高い青年が一人芝居をしているのかと思った。
しかし、そんな珍妙なことがそうそうある訳もなく、答えは簡単。どちらも男だったのである。
世間的にかなり駄目な父親のことを彼女は心配して、そのアパートをよく訪れるようになった。アパートへゆく度そこの管理人に出会える訳はないのだが、娘に会えるのが余程嬉しいのか必要以上に饒舌になる父親から、彼らの噂は放っておいても耳に入った。
「春世君はねえ、こまめに掃除もしてくれるし働き者だよ。背の高い子は漣雅って変わった名前でねえ、なんか引っ込み思案なのかなあ。挨拶も会釈だけでね、すぐに部屋へ引っ込んじゃうんだ。ふたりとも大学生くらいかなあ。大家さんの息子らしいんだけど、仲はいいみたいだねえ」
と謂うことである。
一日中ぶらぶらしているだけあって、井上父の観察はほぼ的中していた。違うのは、ふたりとも実際は大家の養子で、漣雅の方は大家の孫、春世はまったく他人の子と謂うことだった。この辺りは非常に複雑らしく、どちらに訊いても従兄弟か何かだと思っていれば間違いないから、と云っていた。
春世は父の云う通りぶつくさ云いながらもよく働いている。逆に漣雅青年は宵っ張りで朝が苦手らしく、午頃から働き出すそうだ。
しかし、働くといってもアパートの管理人と謂うのはそれほど仕事はないとのことである。ただ、部屋を空けられないので、どちらかひとりは必ず残って居なければならない。未歩は、春世のような人間が、よくそんな地道な仕事に従事していられるものだと思った。
+
「ハル君、いっそのこと化粧でもしたら」
「そんなことしたら余計男が寄ってくるだろ」
「声出せば男だって判るじゃない」
「なら化粧なんかする必要ねえだろうが」
「化粧映えしそうだから。……ちょっとやってみていい?」
「やるって、何を」
「お化粧」
「やだよ」
いいからいいから、と彼女は鞄から化粧道具を取り出した。乱暴な春世であるが、未歩には弱い。ので、おとなしくされるが侭になっていた。髪をピンでとめた段階で、もう女の子にしか見えなくなってしまった彼を見て、彼女は思わず笑ってしまった。
端正な顔立ちをしているので、薄く化粧するだけで驚くほどきれいになる。
「何よ、わたしよりきれいじゃない」
「まあ、そうなるだろうな」
「ひどい」
「おまえがやったんだろうが」
「鏡見てみる?」
「どれ。……はあ、すげえ別嬪だな」
「自分で云うの?」
「客観的な意見として」
「漣雅君、来ないかな」
「あいつにこんなざま、見せられるか」
「いいじゃない。弟がこんな美人だって判ったら、ちゃんと朝起きて仕事手伝ってくれるようになるよ」
「どういう理屈だよ。別にあいつは仕事してない訳じゃねえし、起きてからはちゃんと働いてるだろ。時間がずれてる方がこういう仕事の場合だと却って都合がいいんだよ」
「……そうか」
その時、扉を叩く音がした。
「ハル君、這入っていい?」
「だめー!」
あたふたとしている春世の様子を見て、彼女は大笑いしてしまった。だめー、などと謂う言葉遣いも、なんだか可愛らしい。
「漣雅君、這入ってはいって」
「何が這入ってはいってだ。漣雅、扉を開けたら命はないと思え」
「何してるの」
「やってる真っ最中だよ」
「嘘ばっか。漣雅君、いいから這入ってきて」
「馬鹿、なに云ってんだ。漣雅、這入ってきたら殺すぞ」
「未歩ちゃん、ほんとに這入っていいの」
「いいってば、早く早く」
「這入るよ。……ハル君どうしたの、踞って。気分でも悪いの」
「悪い」
「どうしたの」
「顔見てあげて」
「やめろー」
「ハル君……。か、可愛いねえ」
「殺されてえのか、おまえ」
「可愛いでしょー。男にしとくのもったいないよね」
「ほんとだねえ。一度、性転換勧めたらとんでもないこと云ったけど」
「なんて云ったの?」
「きん……」
「ハル君、何するのよ」
「屈み込んでても攻撃力は鈍らないんだね」
「大丈夫? 漣雅君」
「平気だよ、慣れてるから」
「でも、すごい音がしたよ」
「ほんとに慣れてるから大丈夫。……ハル君、そんな恥ずかしいなら化粧、落として来なよ。顔は見ないから」
「えー、もったいない」
「まあ、似合ってるからもったいないような気もするけど、ハル君、化粧しなくたって充分きれいだから」
「きれいとか云うな」
「うーん……。ほんとに可愛いねえ」
「あ、行っちゃった。……で、性転換勧めた時、なんて云ったの」
「てめえの金玉、バーベキューにして猫に喰わすぞ、って」
「………」
「未歩ちゃんにそんなことは云わないから安心して」
「そりゃ云わないだろうけど……。そんなものついてないし」
「そういうことじゃないけどね」
「化粧落しとかあるの?」
「男しか居ないのにそんなものあるわけないじゃん」
「他はある程度落ちると思うけど、マスカラは石鹸だけじゃ落ちないよ」
「マスカラって?」
「睫毛を濃く、長くするやつ」
「ああ、それでつけ睫毛つけたみたいになってたのか。まあ、もともと睫毛は長いんだからたいした違いはないんじゃないの」
「あれつけるだけでもだいぶ違ってくるよ」
「あ、ハル君。元に戻ったじゃない。……なんで寝室に行っちゃうの」
「ハル君、拗ねないでよー。わたしの前では平気だったのに、なんで漣雅君に見られただけでそんなに厭がるの」
「こいつに弱みを握られるなんて、悪魔にカマ掘られるよりも最悪だ」
「どんな比較の仕方だよ。弱み握ったなんて思ってないよ、ハル君はなんにもしなくても女の子みたいなんだから」
「ちょっと、ハル君。飛び蹴り喰らわすことないでしょ」
「殺さなかっただけでも難有く思え」
「漣雅君が化粧した訳じゃないじゃない。そんな酷いことするなら、わたしもう帰る」
「帰ればいいだろ」
「ハル君、そんな冷たいこと云ったら未歩ちゃんが可哀想じゃないか」
「うるせえ」
「じゃあ、わたし帰るね」
「未歩ちゃん、待ってよ」
「漣雅、ついでにおまえも出てけ」
「……判ったよ。未歩ちゃん、一緒に行こう」
玄関まで行って外へ出掛かった漣雅を蹴り出し、春世は未歩の腕を摑んで部屋に戻した。
「ちょっと、なんてことするの。漣雅君、可哀想じゃない」
「おれのこと、嫌いになった?」
「ならないけど、呆れた」
「おまえのやること黙って受け入れてたんだから赦せよ」
「うーん……。じゃあ、化粧して一緒に出掛けて」
「あほか」
「ナンパしてくる男、騙したら気が晴れるよ」
「……それは面白いかも知れないな」
ふたりは夕暮れの街へ連れ立って出掛けた。犠牲者が出たか何うかは語らないでおこう。