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気になるふたり

 わたしはそこそこ世間に認知されているブランドを擁するアパレル会社の、事業開発部に所属している。
 事業開発部とは何かと問われれば、商品を企画し、それをデザインするプライドだけは高く才能はぼちぼちと謂ったデザイナーとの折衝、提出されたものを商業ラインへ持っていけるように算段し、それに迎合する予算でデザイナーを説得し、宥める、賺す、煽てる、等々。
 要するに、アイデアを商品化するまでの雑事をすべて請け負い、企業の利益の為に知恵を絞り、損益を出さぬように奔走する便利屋みたいなものである。やることは際限なくあり、きりがない。社員の誰もが、「事業開発部には行きたくない」と云う。
 しかし売り出す商品の取捨選択、管理等々、延いては社の命運を左右しかねない重要な部署に居る訳で、仕事の充実感は十二分にある(だからこそ、忙しい)。新入社員が配属を希望するのも、我が部である。
 やりがいだけはあるのだ。
 そんな事業開発部に新卒で配属されたのは、僅か一名であった。まあ、前年の採用者が多かったので致し方ない。
 新入りは一流大学工学部卒のエリート(であろう)男子。
 男子だ。
 珍しい訳ではないが、アパレル関係では女子が圧倒的に多い。しかも、一流大学の工学部卒は滅多に居ない。と云うか、我が社にはひとりも居ない(社長を含めて)。ナニ故、お洋服を作る(販売する)会社を選んだのだろうか。謎である。
 しかもその彼はわたしの直属。ざっくりとした部内の雰囲気から、わたしが指導をすることになったのだ。態よく押しつけられた、とも云える。
 彼の名前は武田宏治。浪人も留年もしておらず、現役バリバリの新卒二十二才である。工学部出身ならば身装りなど構わぬごつい野郎であろうと思っていたら、さにあらず。背が高く線の細い眼鏡君であった。かなりの高身長で、一八〇センチはゆうにある。顔立ちはあっさりとした、所謂塩顔で、身ぎれいでさっぱりしている。非の打ちどころが、取り敢えずない。
 取り敢えずと謂うのは、あっさりした和風の顔が嫌いな女は歯牙にも掛けないだろうし、収入重視の人間は、新入社員には洟も引っ掛けない。女子は世知辛いのだ。
 そんなことより目を惹くのは、彼の左手薬指に光る指輪である。意味もなく嵌めているとは思えない。
 隠そうともせず堂々と嵌めているので、部署の者らは好奇心にはち切れそうになりながらも、問うことが出来なかった。それは彼の雰囲気が若い割には整然として、微妙に冷たそうだったからである。
 兎に角、武田宏治青年の世話係に(何故か)任命されたわたしは、彼と行動を共にすることになった。そうして判ったのは、武田君の控えめさである。
 不必要に自己を主張しない。こちらの云い分には決して逆らわない。教えたことは一度で覚える。しかし、出過ぎたことはしない。稀に見る優良株だ。
 だいたいに於いて一緒に行動する為、休憩も一緒である。初日に外で食事をしようかと誘ってみたらば、
「いえ、弁当を持ってきています」
 と、あっさり躱された。
「お母さんが作ってくれるんだ」
「いえ、家の者が作ってくれるんです」
 家の者とは?
 と思って問うたならば、
「ええと、同居人です」
 彼は少し恥じらいながら答えた。
 同居人。要するに同棲相手と謂うことか。つまりはその相手が指輪の交換相手であるのだろう。
「それはつまり、同棲してるってこと?」
「同棲って……。大学に入った時から相手のところにぼくが居候しているんです」
「居候?」
 彼が云うには、同居人は高校時代からひとり暮らしをしており、部屋に余裕があるので大学へ入るのを機に武田君は親元から離れ、相手の家に引っ越したそうな。
「その子は進学しなかったの」
「高校在学中に親が亡くなって、遺されたマンションの収入で暮らすことを選んだんです」
「はあ、凄いねえ。羨ましいというか、なんというか」
「そうとも云えないですよ」
 武田君は苦笑いを浮かべた。
 それからも彼は毎日、愛妻弁当(同居人の手作りではあるが)を持参してきた。見てみると、彩り鮮やか、如何にも女子が作りました、と謂った様相からはほど遠く、どちらかと云うと、作ったものを詰め込みました、と謂った感じである。
 或る日の献立を見た限り並べてみると、
・だし巻き卵(焼き海苔入り)。
・法蓮草の胡麻よごし。
・大豆と昆布の煮物(後で聞いたらマリネだった)。
・自家製ぬか漬け(茄子と胡瓜)。
 それと、雑穀ご飯。
 どんなナチュラリストなのだ。ロハスか? スローライフか? こんな女とは親しくなれない。寧ろ親しくなりたくない。厭味だ。
「なんか、彼女は健康志向なの」
「彼女ではないんですけど………。うーん。体が弱いんで、そういうことを気に掛けているんじゃないでしょうか」
「体が弱いんだ」
「まあ、子供の頃から虚弱体質でしたね」
「子供の頃?」
 彼が云うには同居人とは生まれる前からの縁(つまりは父親が親友同士)で、もの心ついた頃から一緒くたに育てられたのだという。武田君はごく普通に世渡りをしてきたのだが、相手の方は個性的と云えば聞こえはいいが、協調性のない子供で、それを現在まで貫き通しているらしい。
 羨ましい境遇である。
 毎日ナニをしているかと云うと、マンションの上がりがあるので、日がな一日、自宅に篭り、家事をするか本を読んでいるそうな。日々労働に明け暮れ、対人関係に神経をすり減らしている者からすれば、
「ふざけんな、馬鹿野郎」
 と、襟首摑んで怒鳴り散らしたいほどである。
「おいこらボケェ、どないな了見やねん。そいつ連れてこいや。しばき仆したるわ」
 と、ガラ悪く云い募りたい気分にかられる。真面目に労働し、思うような賃金を得られないひとびとすべてが、わたしと同じ思いを抱くのではなかろうか。

 或る日、帰宅する武田君と通路で出喰わした。
「あれ、今帰り?」
「はい。部長に書類を提出したので、それで上がりです」
「事業部じゃ早い方だよね。家、直帰?」
「いえ、約束があるので……」
「約束って?」
「早く終わるのが判った時点で、同居人に連絡したんです。多分もう、ロビーで待っていると思うんですけど」
「えー。あの愛妻弁当の君が?」
「愛妻弁当じゃないですよ」
 武田君は照れると謂うのでもなく、苦笑いしている。ふたりしてエレベーターに乗り、一階に降り立った。英国ではグランドフロアーという。それがどうした。
 ロビーは閑散として、隅のソファーにひとり、カジュアルな身装りの若者が腰掛けているだけである。遠目に見ても色白で整った顔立ちの、痩せた青年だった。熱心に文庫本を読んでいる。
 武田君はわたしに軽く会釈をし、ロビーの隅に居る件の青年の許へ小走りに駆け寄って行った。知り合いなのだろうか。
 文庫本を読み耽っている青年は、武田君が傍まで行ってもその気配に気づかなかったのだが、彼が肩に手を掛けると、漸く顔を上げた。
 それまでの陰鬱な雰囲気とは打って変わり、にこやかな、飼い犬が主人に頭を撫でられ、頻りに尻尾を振っているような表情になった。これはもう、紹介されなくてもあの青年が同居人であり、互いが好き合っている(少なくとも待っていた青年は、武田君を好ましく思っている)と謂うのが手に取るように判った。
 こそこそと小声で話し合って後、ふたりはわたしの方へやって来た。武田君は勿論、いつも通りの顔つきだが、連れ合いの方は寒さに閉ざされた北国の、永遠に溶けることがない凍土のような表情をしている。
 はっきり云って恐い。帯刀していたならば、問答無用で切り捨て御免と謂った感じである。
「川上さん、こいつはぼくの同居人で、森川春洋です。ハルミ、こちらは同じ部署の先輩で、川上さん」
 わたしは意味もなくどぎまぎしながら視線を逸らして、
「はじめまして、川上麻衣子です」
 と、自己紹介した。
「川上麻衣子? おんなじ名前の女優が居たよな」
「同姓同名なの」
「へえ」
 そう云って彼は、わたしを上から下まで眺め廻した。実に居心地の悪い視線である。思春期の色気づいた少年が異性を眺め遣るのとは違う。値踏みをするような視線なのだ。
「あんたはそこらの女とは違うように思える。おれたちのことをホモだのおかまだのと触れ廻るようには見えない。でもそれは、おれの直感でしかない」
 そこまでクールに云ったかと思えば、傍に控える武田君に、
「どうなんだ、こうちゃん」
 と問い掛けた。
 いや、こうちゃんて。別にいいけど。
「ハルミ、初対面のひとに敵意を燃やすな」
「敵意なんか燃やしてねえけどさ、女は噂好きじゃん。男同士が待ち合わせしてたってだけで、妄想爆発してるぜ」
 その通りです。
 しかし、彼らにも申し開きは出来ないだろう。何しろ待ち合わせ相手である美青年の左手薬指には、武田君とお揃いの指輪が燦然と光っているのだ(わたしにはそう見えた)。
 ゲイのカップル以外、男同士で指輪を交換するとは思えない。それが社会通念と謂うものであろう。
「あんた、麻衣子だっけ」
 と、ハルミ青年が云った。いきなり呼び捨てかい、と謂う気持ちを、極力表に出さないようにした。
「そうだけど」
「おれらと一緒に、飯喰うか?」

     +

 会社の後輩の同居人である美青年、森川春洋君の意外な誘いにより、花金(古いか)デートのお邪魔をすることになった。好奇心はもう、はち切れそうだ。針で突けばぶちまかるほどである。
 ふたりが向かったのは、会社の近くにある居酒屋であった。安いのが売りのチェーン店ではなく、路地裏の片隅にひっそりとある、こじんまりとした店だ。迎える店主は若く、恐らく彼らと同年代と思われる。
「ああ、こうちゃん、ハルちゃん、久し振り」
 店に入るや否やすっきりした顔立ちの店主が顔を上げ、ふたりに声を掛けた。知り合いなのだろうか。
「ハルちゃん、元気そうじゃない。最近、調子いいんだ」
 そう云われたハルミ君は、俯いて「まあね」と小さな声で応えた。そう謂えば、同居人は虚弱体質だと武田君が云っていたことを思い出した。まあ、どう考えても体育会系には見えないし、丈夫そうにも思えない。寧ろ病み上がり、と謂った雰囲気を醸し出している。
 彼の肌は漂白したように白く、骨と皮、とまではいかないが、関節が飛び出るように目立ち、腕など簡単に折れてしまいそうである。武田君は一八〇センチを越す長身だが、ハルミ君の方は一七〇センチそこそこしかなさそうだ。
 ふたりが並んで歩いている姿は、普通に恋人同士に見えた。それはハルミ君が華奢で儚げな雰囲気に思えるからであろう。
 店内に這入ると座る席はいつも同じらしく、ハルミ君が座るのはカウンターの左端から二番目のようだ。何も云わなくてもふたりの飲みものは出され、店主がわたしの方を見遣り、
「そちらさんは、何を?」
 と、問うてきた。
「あ、取り敢えず麦焼酎の水割りを」
「ほおう、男前だねえ。どっちの彼女?」
 意外な質問である。親しそうな店主の男が彼らをゲイのカップルとは思っておらず、店に女を連れてくれば、どちらかの恋人だと思う。一体これはどうしたことであろうか。頭が混乱してきた。
「会社の先輩なんだよ」
 武田君が口を挟んだ。ハルミ君はわたしを誘ってから、店主に発した「まあね」以外、ひと言も口を利いていない。
「先輩か、お姉さんな訳だ」
「三人は同級生なの?」
「いや、ご近所同士。幼なじみだな」
「じゃあマスターは、ふたりより年上なんだ」
「そうそう。兄貴分」
 なんとなく羨ましい関係である。わたしには幼なじみと呼べる相手などひとりも居ないし、学生時代の友人とも疎遠になってしまった。幼なじみや親友などと謂う存在は、小説か映画の中だけのものだと思っていたのである。
 この店にはお通しがないようで、武田君がわたしにも意見を聞きつつ小皿を頼んだ。ハルミ青年には何も訊かないのが不思議である。訊かなくても判る間柄なのか。
「このハルミのことなんですけど……」
 やっと武田君が打ち明け話をはじめた。
 ふたりは生まれた時から一緒で、幼なじみと謂うよりは兄弟のように育ったらしい。ハルミ君の母親は彼が中学生の時に交通事故で亡くなり、父親も体を壊し、闘病の末、妻の死の三年後に亡くなった。
 残されたハルミ君は高校は卒業したものの、もともと体が弱く(親からの遺伝らしい)大学への進学は諦め、遺された不動産収入で暮らしている。武田君の両親は健在なのだが、地方へ転勤してしまい、ハルミ君の住まいへ厄介になることになった訳である。
 疑惑の指輪であるが、これはハルミ君の両親の結婚指輪で、病床を訪うた武田君に彼の父親が、
「コウジ君は熟知していると思うが、ハルミは生まれつき体が弱い。これはもう、ぼくらの責任だ。ぼくも妻も、丈夫な体質ではなかった。出産も医者から止められたほどだ。でも、ぼくたちは子供が慾しかった。まったく、親の傲慢だよ。ハルミにはなんの罪もない。幼い頃から弱い体で苦労させた。しかしもう、ぼくは長くない。頼れる身寄りと云えば君の両親くらいだ。コウジ君、君はハルミのことを守ると云ってたね」
 そう問われて、そんなことは云っておりませんと答えられる筈もない。実際、子供の頃に(無邪気にも)「どんなことがあっても、ぼくがハルミを守るんだ」と、放言していたそうな。
「これはぼくたち夫婦の結婚指輪だ。お互いを守り、庇い、一生を共にすると誓った証なんだ。これを君に託す。どうか、ハルミを守ってやってくれ」
 ドラマのような話である。託された方はいい迷惑だと思うが、武田君は涙ながらにそれを受け取り、父親の指輪を自分に、母親の方は少し大きくしてハルミ君に渡したと謂う。
 だからペアリングとか、婚約指輪とか、そんな軽薄なもの(と云ってはいけないだろうが)とは桁違いに重い。約束、誓い、契約の重みが違う。なにしろこれから死にゆくひとに、息子の将来を託されたのだ。断る訳にもいかないし、武田君も断る気は毛頭なかった。
 こんなことが現実にあるとは、事実は小説よりも奇なり。身近にあるドラマ。後輩はドラマチック。エキゾチック・ジャパーン。郷ひろみかよ。
 何を考えているのだ、わたしは。
 カウンター席なので、武田君とわたしの間にはハルミ君が座っている。話題の当人を間に挟み、濃厚な打ち明け話をするのは如何なものか。ハルミ君は気を利かせてなのか体を反らすように空間を作っていたが、不自然だし、呑み喰いがしづらそうである。
 そんなことにはまるでお構いなく武田君は話していた。いいのか、それで。

 それからもわたしは後輩の武田君を指導し、その後輩である武田君は、相も変わらず毎日『愛妻弁当』を持参し、同僚はわたしに彼のことを探ってくる。
「ねえ、武田君に指輪の件、訊いた?」
「あのお弁当、やっぱ愛妻弁当だよね」
「二十二才で妻帯者って、なんか残念すぎない?」
「結構ルックスいいじゃん。売約済みってないよね」
「奥さんのこととか聞いてない? 可愛いのかな」
 うるせえよ。
 最初に会った日、ハルミ君は酒を飲む毎に態度が軟化し、よく喋るようになった。
「そもそもなんだよ、あんた。せっかくの週末なのに、一緒に遊ぶ相手も居ねえのか」
「悪かったわね、居ないから此処に居るんじゃないの」
「だったらおれに感謝しろよ。誘ってやったんだからさ」
「ええ、ええ、感謝致しますとも。こんな麗しい方とお酒の席をご相伴させて頂いて、感謝感激、雨霰でございますわよ」
 厭味たらしくそう云ったら、あんた面白えな、とハルミ青年はわたしの頭をわさわさと撫でた。華奢で女性的な外見に似合わず、男らしい仕草である。男らしいと謂うよりは、ガサツと云った方が適当であろう。
 その酒の席で、ハルミ君と携帯番号とアドレスの交換した。武田君の電話番号は仕事上、登録しているのだが、それを活用したことはない。
 ハルミ君は一日中閑なだけあって、よくメールを送ってくる。写真を撮るのが好きらしく、しかも引き篭もりなので家の様子しか撮影しない。
 窓から見える景色、作った料理の写真などをまるで女の子のように、こまめに送ってくる。SNSにではなく個人的に、わたしにだけ送って来るのだ。それを見てわたしは、何故か涙ぐんでしまう。若い男の子が一日部屋に篭り、ひたすら家事をこなしている。不平も云わずに。
 本人は苦にならないし、好きなことだから、と云っている。武田君も、ハルミはひとづき合いが苦手で、外に出ることをあまり好まないと云う。
 本当にそうだろうか。
 二十二才の成人男子が他者との接触が殆どない状態で、親が遺した5LDKの自宅から一歩も出ず、それが幸せな環境と云えるのだろうか。
 聞くところによると、ハルミ君は本当に体が弱く、医学的には『免疫不全』とされているそうだ。これはもう、どうすることも出来ない。しかも、そうした病名にするしかないと謂う話で、ただ単に体が弱い、病気に罹りやすいだけなのである。
 幼い頃から入退院を繰り返し、友達と一緒に遊ぶことも出来ず、いつも家で工作やら何やらしていたと謂う。おかげでプラモデルは売るほど出来たそうな。それにもわたしは涙が出る。
 悲しすぎる。ガンプラ百個作ったって、彼には希望がないのだ。

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「麻衣子はなんだ、こうちゃんが好きなのか?」
「そうねえ、可愛いわよ」
「へえ、そうなんだ。じゃあさ、こいつの筆下ろし、してやってくれよ」
「はい?」
「こうちゃんさあ、ドーテーなんだよ。可哀想だろ」
 いやいやいや。酒の席とは謂え、そこまで明白地な話をされても。と、彼の隣に座る武田君を伺えば、しれっとした様子でつまみを喰っている。
 おいこら、おまえの連れがとんでもないこと吐かしてるぞ。聞こえてるだろ。チェリーボーイだと大胆発言してるんだぞ。いいのか。
「麻衣子はさあ、彼氏とか居ないだろ。だったらいいじゃん。こうちゃん頭いいし、イケメンだし、ちょっとお堅くて融通効かないけど、いい会社入ったから将来有望だよ」
「まあそうだろうけど、武田君がわたしに惚れちゃったら、ハルミ君はどうするの」
 ハルミ君は俯いてくすくす笑い、麦焼酎の水割りをこくりと飲んだ。
「んなこた関係ねえよ。こいつは親父から云われたことをクソ真面目に履行してるだけなんだからさ、託されたおれが解放してやんなきゃなんねえだろ。なあ」
 そう云って、ハルミ君は武田君の肩を揺さぶった。
「いい加減にしろよ」
 氷点下三十度くらいの声がした。発信源は、武田君である。
「すみません、川上さん。こいつ、酒癖悪くて」
「いやぁ、そんなことは気にしてないけど……」
 武田君はわたしに済まなそうな顔を向けてはいるが、明白地にハルミ君を視界から外している。ハルミ君の隣に座っているのに、その仕草の技巧は感嘆せざるを得ない。
「麻衣子ぉ。こうちゃん、怒っちゃった」
 巫山戯た云い方ではあるが、ハルミ君はかなり悄気ている。その姿、その表情が、異様に可愛らしく思える。
「怒ってないよ。いい加減なことを云わないでくれってだけ」
 武田君は慰めるようにハルミ君の頭を撫でた。項垂れていたハルミ君は嬉しそうに顔を上げ、
「判った、ごめん」
 とか吐かしておるのだ。
 おまえらは馬鹿野郎かい。
 いやもう、うんざりするほど可愛い。このふたりは可愛すぎる。同い年なのに保護者然としている武田君も可愛いし、無邪気で奔放なハルミ君も可愛いとしか云いようがない。その可愛さの根拠を探ってみたならば、ふたりともが相手に無抵抗、何をしようとすべて受け入れ、己れを押しつけない。
 稀有な関係である。
 少なくとも、男女でこのような関係性は希めない。残念ながら。
 損得が絡まない愛情は、斯様に麗しく、他者にも感動を与える。
 しかも彼らは、肉体関係を結んでいない。ハルミ君によると、共に支えあって暮らしているのは慥かであるが、相手の恋愛には口を出さない。武田君は一生、ハルミ君を守ると誓ったつもりでいるけれども、ハルミ君の方は、死にかけの親父が云ったことを律儀に守る必要はない、自分は生活に困らない境遇なのだ、と主張している。
 どちらかと云うと、弱々しいハルミ君の方が現実的で、あっさりしている。武田君は四角四面で、義務を果たそうと必死な感じだ。痛々しいほどに。
 ふたりはまだ若い。これから先がどうなるのか、わたしには判らない。彼らには積み上げた二十年を越す月日がある。互いを思いやり、互いに愛し合う(性的な意味ではなく)心持ちが、他人にも判る。その愛しさが、こちらにも伝わってくる。
 誰かを愛したい。
 誰かを大切にしたい。
 そんな気持ちが実際にあることが、これほどにも心を癒し、強くするとは、思いもよらなかった。生きていると、いろんな事象に出喰わすものである。

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