想い
大学生の時に知り合った木下亮二と暮らしだした際、周囲の者は相当意外に思ったらしい。
「清世ちゃんが同棲するなんて」
数少ない友人たちは口を揃えて云った。しかもわたしが一緒に暮らすと云いだしたと知ると、皆一様に吃驚した。親しくないひとからすると、温順しくて影の薄い、何処にも魅力のない女が、こともあろうにバンドマンとつき合うどころか一緒に暮らすなんて、と、驚愕したらしい。その驚きはわたしからしても、尤もなものだと思えた。
わたし自身もバンド活動をし、ステージに立つ人間と交流する機会があるとは思ってもみなかった。今以ってしても、女性から常ならぬ関心を持たれる男性と共に居を構えている現実を夢ではないかと思っている。
夢と現実はかなり掛け離れていることは、妄想に囚われる愚かな女子でも成人すれば悟るであろう。それは辛くとも、必ず突きつけらる現実である。しかし女子の大半はいつまで経っても、どれだけ失敗を繰り返しても、夢を見てしまうらしい。
わたしは経験もなければ、その夢すら思い浮かべたことがない。意味すら判らなかった。それを木下さんは面白がり、わたしを好ましく思い、選んでくれた。
選んだと謂うことは、己れの領域に招じ入れると謂うことで、つまりは恋人であり、突き詰めれば婚姻して妻になると謂うことである。で、廻り口説く云わずとも、あれこれあった末にわたしは木下さんの妻となった。
木下さんは片づけることが苦手で、ものが多い訳ではないのに一週間も放置すると、部屋は足の踏み場もない状態になった。それを仕事が休みの度に片づけにゆくよりは、彼がものを取り出す端から仕舞ってゆけば手っ取り早い、というのが『建前』だった。そんなことなどなくても、わたしは木下さんと一緒に居たかった。
別に始終見張っていたい、というのではなく、ただ、傍に居たかったのだ。
他人とひとつ屋根の下で暮らすのは、お互いにはじめての経験で、戸惑うことが多かったものの、木下さんはとても優しくて、安心していられた。
彼がひとり暮らしをはじめた当初、休みの日にはわたしが料理をしていたのだが、どうも口に合わなかったらしく、木下さんが炊事を担当することになった。背の高い彼が台所に立って、野菜を切ったりフライパンや鍋を手にする様子は、ちょっと可笑しかった。
凝ったものは作らなかったけれども、どれも美味しく思えた。わたしの作るものが不味く感じられるのも致し方ない。それでは申し訳ないので、ひとりの時は作って勉強した。上手に出来るようになったのではないか、と思っても、なかなか彼に食べてもらう機会は訪れなかったが。
ただ、木下さんは非常に少食で、濃い味つけのものも苦手らしく、そもそも実家の食卓に並ぶものは強肴のようなものばかりだった。もともと、主食になるようなものはあまり食べないひとなのだ。見た目もそうなのだが、まるで仙人のように思える。いつも焼酎を呑んで、小鉢のものをつまんでいた。
華奢で痩せた外見通り、体もあまり丈夫ではなく、貧血症で胃も弱い。風邪をあまり引かないので医者に掛かることがない為、本人はそのことにまったく気づいていなかったのだが。
どうも木下さんは自分のことをよく判っていない節があって、ひとにやたらと触る癖も、巫山戯ると女言葉になることも意識していないようだった。指摘しても忘れてしまうらしく、ひとに云われると意外そうな顔をしている。
そんなところが、なんだか可愛らしかった。
一見、明朗な性格ではあるが、とても無口で、他人には必要なこと以外話さない。ふたりで居る時は喋るのだけれども、ひと区切りつくと、すぐに黙り込んでしまう。バンドをやっており、そのメンバーふたりは彼のことを「暗い男」だと云う。
わたしが思うに、彼は暗いのではなく、他人をそれほど必要としていないだけなのだ。
とても気さくなひとなので、わたしより友人は多い。話し掛けられればちゃんと応対するので、さほど親しくないひとには無口だとは思われていない。ライブのあとに店を出ると、大抵外で数人の観客が待ち構えていた。そういった時、彼は話し掛けられることに対して、丁寧にひとつひとつ答える。
木下さんはそうしたひとたちにわたしの存在を隠したりしないので、いつでも肩を抱いたまま話していた。肩を抱くどころか、背後から抱き竦めてわたしの手を取り、傀儡使いのように動かしたりもする。その手でひとと握手したりものを受け取ったりするので、相手は妙な顔をしたものである。
そんなことをしていれば、彼のことが好きな女性たちはわたしを嫉妬に満ちた目で見る。しかし、それも数年でなくなった。此処まで開けっぴろげにされたら、受け入れるしかなくなるのだろう。嬉しいような恥ずかしいような、複雑な気分だった。
バンドではギターとボーカルを担当していたが、木下さんはひと前で唄うことが好きではないようだった。カラオケに行ったことがなくてもひと前でなければ恥ずかしくないらしく、作曲する際や料理を作っている時などは小さな声で唄っている。
何故そんな彼がボーカルを担当するようになったのか知ったのは、かなりあとになってからだった。誰も唄いたがらないので仕方なく阿弥陀籤をやったら、運悪く木下さんが引き当ててしまったのだという。これを聞いたひとはたいてい大笑いするらしい。けれどもわたしは、気の毒な成り行きだと思った。
この話でそう思ったのはおまえと棠野だけだ、と木下さんは笑った。棠野というのは、彼と同じように三人編成のバンドをやっているひとで、ボーカリストではない。彼に云わせると、自分がやりたくないばかりに幼なじみに押しつけた、とのことである。
彼は唄う時以外は、とても声が小さい。男のひとにしては珍しいほどで、周囲が騒がしいと聞こえないほどである。本人も声が小さいことは認識しているらしく、会話する際は身長差もあり、たいてい耳許で話すので、それだけでひとからはいちゃいちゃしているように見えてしまう。けれども、それは誰に対してもそうだった。
彼は、ひとにまったく区別をつけない性格をしていたのだ。
それは動物に対してもそうだった。
ライブによく来る少年が猫を引き取ってくれないかと云うので、飼うことになった。これを勝手に承諾したので、あとで木下さんから「清世は本当にいつも事後承諾だな」と云われた。慥かにそれはあるかも知れない。
就職した時も、何も訊かれなかったので、此方も何も云わなかった。勤務先が非常に治安の悪い処にあったので、打ち明けた時は少し怒っていた。
はじめて飼ったコロは彼に悪さばかりしたが、それでもあまり怒ったりしなかった。一度だけ腹に据えかねたらしく、その猫を袋に詰め込んで釣る下げたことがあった。わたしが怒ったら驚いた顔をしたが、そんなに怒るならおれも袋に入れてくれ、と云うので笑ってしまった。
その後も、家には切れ間なしに猫が居た。猫たちに木下さんは、人間と同じように接する。わたしに対するのと変わらぬように話し掛け、同じように相手をしていた。
猫はそれからついてきたり拾ったりして増えていった。木下さんもわたしも、動物を飼うのはコロがはじめてで、最初は試行錯誤だった。木下さんはインターネットで猫について熱心に調べていた。病気に掛からないよう、愉しく過ごしてもらえるよう、心を砕いて育てたけれども、コロは十三才で亡くなってしまった。
わたしが友人と約束して外出し、休日だった木下さんはひとりで家に居た。喫茶店で休んでいるところへ、彼から電話があった。普段、そんな時に電話を掛けてくることなどないので、何があったのだろうとすぐに出ると、わたしの名前を呼んで少し黙り、「コロが死んだ」とだけ、呟くように云った。
元気がなくなっていた。食慾もめっきり落ちて、医者に相談したり調べて栄養価の高いものをコロにだけ与えていた。改善されているようには思えなかったが、出掛ける前は普段と変わらなかったのだ。
友人に事情を話し、おろおろしているわたしを見かねてタクシー捕まえて貰い、帰宅した。
木下さんは座卓に置いた箱をじっと見つめており、暫くわたしに気づかなかった。コロは空き箱に納められ、冷たくなっている。他の猫たちがわたしの傍に寄ってきて鳴き声を上げると、やっと木下さんは顔を上げ、「おかえり」と云った。
改めてコロの姿を見ると、涙があとからあとから溢れてきた。木下さんはわたしの肩を抱き竦めて、ただ黙っていた。簡単に泣いて悲しむわたしより、彼の方が何倍も悲しんでいたのだろう。その時、それが判らなかった。自分の悲しみに手一杯で、彼のことまで考えられなかったのだ。
木下さんはわたしと同じ『東六区図書センター』という施設に勤務していたのだが、三十六才の時に本社へ転勤になり、その翌年、入籍した。入籍については、子供が出来たらしようと話してはいたものの、一年ほど前に子供を諦めた時、それは立ち消えになっていた。
だから彼に「結婚しようか」と云われて、驚いてしまった。「本当にいいんですか」と訊ねたら、厭ならいいと投げ遣りなことを云うので、慌てて厭じゃありませんと取り縋った。これを逃したらもう、彼は二度と求婚などしないだろう。
それが四月の終わりのことで、連休のまっただ中だった。ひと月もすればわたしが四十になってしまうのを考えてくれたのか、五月の三日に婚姻届を提出した。祝祭日に届け出が出来るとは知らなかった。
披露宴も結婚式もせずに済ませたのを気の毒に思ってか、彼のバンドのひとが入籍記念パーティーを催してくれた。そこへは、半ば行方不明になっていた幼なじみの恵理ちゃんも駆けつけてきてくれた。木下さんはどうも彼女が苦手らしく、避けているようだった。
それから一年経って、わたしは仕事を辞め、専業主婦となった。それでも木下さんが炊事をするのは変わらなかった。文句も云わずやってくれているので、趣味だとばかり思っていたのだ。
木下さんが四十才になった春、職場で仆れて入院することになった。心配するほどのことではなく、ただの貧血だった。が、当時の社長が面白がって入院させた上に、それを長引かせてしまった。しかし、入院中にも仆れてしまったので、やはり体調は思わしくなかったのだろう。
そして、彼が退院した時にわたしが夕飯を作ったら、「ちゃんとした料理が出来るのに、なんでこれまでおれに作らせていたんだ」と、文句をつけられてしまった。わたしが趣味だと思っていたと云ったら、木下さんはぽかんとした顔をしていた。
どうやらそうではなかったらしい。けれども、多少は趣味に近くはなっていたらしく、それからも休みの日などは作ってくれた。
体が丈夫ではない、と思っていたものの、風邪もあまり引かず、食が細い割には健康そうだったので、貧血のことも忘れがちになっていた頃、図書センターの利用者が減りはじめた。木下さんは、わたしが仕事を辞めてからは会社のことは此方が訊かない限りまったく云わないので、潰す潰さないというところまで話が進んでいるのを知ったのは、世間で話題になりはじめてからだった。
それも、彼のバンドのホームページに設置された掲示板の書き込みで知ったのだ。
木下さんはそのことで大変忙しくしており、帰宅時間も深夜になることが多かった。会話も減ってしまい、詳しく訊ねることも憚られた。彼はとても真面目なひとなので、すべてを差し置いてセンター存続の為に時間を費やしているようだった。
寝食を忘れるように働いて、センターが危機から脱すると、彼は仆れてしまった。
わたしが直接知っているだけでも、仆れたのはこれで三度目である。そのうちの一度はインフルエンザだったものの、高校生の頃にやはり貧血で仆れているらしい。今回は疲れと心労と寝不足が重なったのだろう。そこまで自分を犠牲にして、彼が何かを得られるものでもないのに、と思った。
数日会社に寝泊まりして、帰って来たと思ったら玄関でいきなり仆れてしまったのだ。名前を呼んで揺り動かしても意識が戻らず、如何していいのか判らなくなった。痩せ細っているとはいえ、わたしの力では寝室まで運ぶことは出来ない。
頼るひとが思いつかなかったので、バンドのメンバーである牧田俊介さんに電話を掛けた。
「清世さん? どうしたの」
「木下さんが仆れてしまったんです。意識が戻らなくて、わたしの力では動かせません。助けてもらえませんか」
「また仆れたのか、忙しくしてたからなあ。恰度仕事も終わるところだから、これからそっちに行くよ。待ってて」
牧田さんが電話を切ると、ほっとして腰が抜けた。傍らの木下さんは、青い顔をして目を瞑ったままだった。顔に触れてみると、体温もかなり低下している。三和土の上ではいけないと思い、なんとか立ち上がって寝室から枕と毛布を持ってきた。アパートの玄関は狭く、崩れるように仆れたので丸くなった状態である。
抱え込むようにして何うにか斯うにか毛布でくるんでいるところへ、チャイムの音が鳴り響いた。飛び上がるほど驚いてしまった。
扉を開けると、心配そうな顔をした牧田さんが立っていた。わたし越しに木下さんを認めると、すぐに裡へ入り、しゃがみ込んで彼に呼び掛けた。それでも木下さんの意識は戻らなくて、ふたり掛かりで寝室へ運んだ。
「お手数おかけして申し訳ありません。助かりました」
「いいよ、仕事が終わるところだったんだから。でも、救急車呼んだ方が良かったんじゃないか」
「大袈裟にしたら木下さんが厭がるだろうと思ったんです。すみませんでした」
「いや、いいんだけどね。ただ、おれ、もう親父んとこ行かなきゃならないから此処に居られないんだよ。江木澤でも来させようか」
「いえ、そんなご迷惑は掛けられません。牧田さんのお父さんのことをすっかり失念していました。本当に申し訳ありませんでした」
「そんな水くさい云い方しないでよ。リョウだって親父の世話してくれてんだから、これくらいのこと当たり前だって」
「忙しくてなかなか病院に行けないとおっしゃっていました」
「忙しかったのは知ってるからいいよ。気にするなって云っといて」
そう云い残し、牧田さんは去って行った。
木下さんは牧田さんが帰ってから、ほんの十分ほどで意識を取り戻した。暫くはぼんやりしていて、何故自分がベッドに横たわっているのか判らないようだった。
「玄関に這入って、わたしの顔を見たと思ったらいきなり仆れてしまったんです」
「ああ、おまえがおかえりなさいって云ったのは覚えてる。そのあとのことはまったく記憶にないな。何うやって此処まで運んだんだ」
「わたしひとりでは何うにもならなくて、牧田さんに連絡したんです」
「牧田に? そんなことしたら駄目だろ、あいつは親父さんのことで大変なんだぞ」
「動転して忘れていたんです。云われてやっと気づきました」
「云われてって、今か」
「いえ。牧田さんが病院に行かなくてはいけないから、此処に長居出来ないとおっしゃったんです」
「悪いことしたなあ。おれも気になってるんだけど、此処んとこ忙しくて足が遠のいてたんだよ」
「牧田さんは感謝なさっているようでしたよ。これくらいのことは当たり前だと云って下さいました。兎に角、木下さんは自分の体のことを先ず考えて下さい。今回のことで痩せてしまったようなので、栄養のあるものを食べて力をつけなくてはいけませんよ」
それから木下さんが仆れることはなかった。
しかし、それより大きなことが彼を待ち受けていた。五十代も半ばになった頃、彼の視力は日常生活が出来なくなるほど落ちてしまったのだ。しかも彼は、そのことをわたしに三年も隠して、ひとりで苦しんでいた。
殆ど何も見えない状態になって、その事実を知った。よく見えていないのは判っていた。でも、自分で如何にもならなくなったら云ってくれるだろうと思っていた。わたしに木下さんの現状を伝えたのは、本人ではなく、牧田さんだった。
それを聞いたわたしは、その場で泣き崩れてしまった。泣いたところで如何にもならないことは判っていた。悲しかったのは、わたしに打ち明けてくれなかったことで、それほどまでに信頼されていない事実だった。
頼りなく思われても仕方がない。でも、一緒に悩むだけならば、わたしでも出来る。心配を掛けたくないと思っていたことくらい判るけれど、相談して慾しかった。
しゃがみ込んでいつまでも泣いていたら、木下さんは乗っていた車から降りて、黙ったままわたしの背中を擦っていた。彼はわたしが泣いていると、いつもそうして声を掛けない。泣き止む頃になって、やっと涙を拭ったりティッシュを寄越したりして、話し掛けてくる。
その心遣いがそれまでは嬉しかった。しかしこの時は、何か云って慾しかった。わたしだけが何も知らないでいたのだ。頼りにされない自分が情けなくて仕方ない。
スタジオへ練習に行かなくてはならないのに、木下さんはわたしが泣き止むまで待って、鼻を啜りだしたら立ち上がらせ、肩を抱いて、これからどうするのか訊ねてきた。ひとりになりたくないと云ったら、それまでスタジオへは連れて行ってくれたことがないのに、一緒に後部座席の乗り込んで、ずっと抱き寄せてくれていた。
車の中で木下さんは、黙っていたことを謝った。わたしの為を思って黙っていたのだから、と云ったら、それは違う、と彼は答えた。
「なんだかんだ構われるのが厭だったんだよ。自分勝手な話だ」
「違うだろ、おまえは恐かったんだよ。清世さんに云えば失明することが現実に迫ってくるような気がして、黙ってりゃ引き延ばせると思ってたんだ」
「……そう思ってたのかも知れない」
「そんなことはないと思います。表面的にはそうだったのかも知れませんが、わたしに心配を掛けたくなかったんです。木下さんは現実から逃げるようなひとじゃありません」
「そうだな、吃驚するくらい強いよ。おれには到底、真似出来ない」
木下さんはもう、何も云わなかった。
泣き止んだ時、彼はわたしに、
「おれの目が見えるうちは、もう、泣かないでくれ。清世の笑顔だけを覚えていたい。難しいかも知れないけど、いつも笑っていて慾しい」
と云った。そんな風に、真剣に何かを頼んだことはこれ迄なかった。このあともなかった。だからわたしは、木下さんに二度と泣かないと約束した。彼は殆ど見えていない目をわたしに向け、ありがとうとひと言、云った。
わたしが木下さんの目になればいい。彼が見ることの叶わなくなったものをわたしが代わりに見て、それを伝えてゆけばいい。たくさんの風景を、様々な色合いを、幾つもの表情をこの目でしっかりと見届けて、そのすべてを彼に伝えられればいい。
彼は二十代の頃、親しくしているひとが三人、若くして亡くなり、その度、悲嘆に暮れた。慾しがっていた子供は、わたしの体質の所為で出来なかった。自分に関わりのないことに翻弄され、それに対しても熱心に取り組んだ。何度か仆れて臥せることがあっても、周囲に心配を掛けまいと心を砕いていた。目が見えなくなっても笑顔を絶やすことなく、わたしや遊びにくる子供たちの相手をした。
勿論、本当に心の底から嬉しく思えることも愉しく思うこともあったろう。なければ生きてゆけない。彼は嘘をついたり上辺だけを取り繕うことはしない。それでも彼は、ご両親の育て方が周囲と違っていた為に疎外感を覚え、自分のことを口に出さなくなったのもそれが原因だった。けれど、ご両親も悪いひとたちではなく、木下さんを本当に慈しんでいた。
ただ、本人たちも大人の感性を持っているとは云えなかったのだろう。子供の置かれている状況を把握出来ていなかった。
友人に恵まれ、高校一年生の頃に結成したバンドは失明してからも続けた。面倒を見たひとたちからも慕われ、彼らはずっと木下さんと交流を持ち続けた。会社の為に骨身を惜しまなかったことで、目が悪くなっても仕事を辞めずに済み、定年まで勤め上げることが出来た。
彼は、天使と悪魔の両方に愛されていたのかも知れない。不幸と幸福の間を振り子のように行ったり来たりしていた。そのことを気にするでもなく、飄々と生きていた。
いつか彼は、わたしを「何してんの、帰んなきゃ駄目じゃん」と云って連れ出した。それからずっと一緒に歩いてきた。わたしが恐がらないよう、淋しがらないよう、いつも傍に居てくれた。我が儘を云っても、笑って許してくれた。
その笑顔が消えても、その温かい手が冷たくなっても、わたしは決して離れない。何処までも一緒に行くと誓ったのだ。
木下さんは、わたしに会えたことが生まれてきて最大の収穫だったと云う。目が見えなくても辛いことはないけれど、おまえの顔が見られないことだけは悲しいと云う。
「もう一度だけ、清世の顔が見たい」
そう云って、わたしの顔をなぞるようにして撫でた。そしてその手がはたりと落ちてしまった。どうしてしまったのかと名前を呼ぶと、少ししてから目を開いて、
「まだ呼んでないから帰れって云われた」
と笑った。わたしは嬉しくなって彼を抱き締めた。
ライブをやっていた時、彼は必ず最後にこう云った。
「ありがとう、さようなら」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?