塵芥溜めのマリア。
此処のところ森鴎外の娘、森茉莉の著作を読み耽っている。好ましい訳ではない。寧ろ、嫌悪感しか覚えない。
世間を舐めて掛かるも、世間に淘汰され、ぶん殴られ、生きる術を見失い、どうにかこうにか社会の歯車に引っ掛かろうと足掻く一般人からすると、お嬢様育ちで、両親とは云わねども、父親から阿呆のように愛され、それをそのまま、死ぬまで貫き通した「お茉莉」は、ひととしてクソだったかも知れないが、わたしからすると羨望の対象でしかない。
甘やかされたい。
なんなんだよ、てめえは。親父の膝の上で、
「お茉莉の顔は上等、眉も上等、鼻も上等、頬も上等、性格も素直で可愛い可愛い」
と煽て上げられ己れを見失い、いや、失ってはいない、自我の慾求を四方八方に押しつけまくり、要するに傍迷惑な人格を創造したのは、文豪、森鴎外なのである。
葬式饅頭を茶漬けにしてる場合じゃねえよ。子供の躾をしろ。悪妻だったかも知れんが、てめえも碌でもない父親だよ。
子供の誰ひとりとして、鴎外の呪縛から逃れ出ていない。何しろ子供全員が、親父に関する随筆(というかエッセイ)を書いている。そしてそれぞれが、我こそ父、鴎外に愛されたと主張しているのだ。
それは凄いことだと思う。それだけ愛される父親はあまり居ない。鴎外は恐らく、子供に対して八方美人だったのであろう。つまり自分がすべてで、他者などどうでもいい、てんこ盛りの愛情もどきを差し出していれば済むだろう、と思っていたのではなかろうか。それは実に楽な立場である。
愛情もどきをだだ漏れにする人間は、得てして誰もそんなに愛していない。己れを一番愛する者が、そうした仕草をするのである。そう、仕草だ。
父の愛を死ぬまで信じ、歪んだ性格を背負ったまま、ひとりきり侘び寂びれたアパート(本人が云うところのアパルトマン)で生涯を終えた森茉莉が幸せだったかと云えば、そんなことなど他人に言及出来る筈もなく、幸福などと謂うものはひとそれぞれで、金を掛けて物質的に満たされれば幸せだと思う者も居れば、どれだけものを手に入れようと喪失感に取り憑かれ、幸福であるとはまったく思いもせず、一生を終わるひとも居る。
彼女は己れの毒を吐き散らかし、市井のひとびとを明白地に見下し、それを世間に公表した。耽美とか云ってる場合じゃないだろう。退廃かと云えば、その通りだ。わたしも相当クソたわけな人間で、他人に甘えられるのなら、自分が努力しないで済むのなら、どんな手段にも縋りつきたいと思う。それが出来るのならば。
どんなに最底辺の暮らしをしようと、森茉莉は森鴎外の娘だったのである。文筆に携われたのも、すべて父の恩恵故であった。
個性的。
それだけならば、茉莉が生きていた時代より現代の方が、多岐を極めている。彼女の文学的な才能がとりわけ優れていたとも思えない。
何しろ、本を読むことを常としていなかったのだ。閑さえあれば本を読んでいるわたしからすれば、金を掛けずとも良書が家内に溢れていた茉莉の境遇は羨望の極みである。それなのに茉莉は、書物を繙かなかった。自ら求めずとも、あらゆるものが提供されていたからであろう。そもそも、何もせずとも慾しいものが差し出されるのに、己れから面倒くさいことをする必要があるだろうか。
鴎外の著作をつまらないと一刀両断する森茉莉の根拠は、恐らく「難しいから」だ。
最高のアナーキストである。
わたしは誰かを非難する立場にはない。しかし、羨望してやっかむことは出来る。
森茉莉。
甘やかされ、己れの立場に胡座をかき、下々の者どもを睥睨し、そこそこの才能はあったろうがそれほどでもなかった。しかしわたしは、彼女の天真爛漫でありながら、自己を卑下するアンビバレンツ。一刀両断の愛に対する心持ちは理解に苦しむ。
わたしを最大限に愛さなければ、死んで下さい。生きるのをやめて下さい。それが厭なら、すべての心情を、すべての持ちものを、あなたの気持ち、命、すべてを、わたしに捧げて下さい。
森茉莉の世間を舐めきった生き方は、まともな人間からすれば噴飯もので、苛立たしく思える筈だ。
七十年代から連綿と続く、少女漫画に於けるホモ文学系(?)。山岸涼子とか萩尾望都とか、大島弓子とか。この辺りのファンは、偏執的で排他的だ。周囲の『サブカル系漫画少女』を見下して生きている。
実質的に生活、社会不適合者だった茉莉を擁護するのは、きちんと社会生活を送り、尚且つオタク生活も充実している方たちであろう。取り敢えず、ファンでありながら中庸の視点で語っている、群ようこの『贅沢貧乏のマリア』を読んでみるといい。
大正昭和平成、もしかしたら令和。ずっと永劫に、腐女子は生き永らえるかも知れない。その純血種、サラブレッド、苦労せずとも作家の道が拓けていた森茉莉は、天からの配剤を受けた父、森鴎外の天使だったのだ。
自分から差し出すものは何もなく、貪慾に知識を漁ることもなく、他人に阿り、愚痴を云う。そして孤独に、死んで腐って、生涯を終えた。
それも当たり前だったのだろう。だって彼女は、マリアなのだから。聖母はイエスに従属するものであり、キリスト教に於いては、聖母信仰は異端とされる。それが何を意味するかは、個々の考えに託そう。
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