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「相手にとっての自分」になる、鏡の法則

「人はみな、誰かの鏡だ」と、ぼくは師匠からおそわった。

あなたは誰かをうつす鏡である、と。


「自分のためにこの世界はある」と、目の前の人やモノや場所を観測してはならないと教わる。

その逆をしなさいと。

「相手にとっての自分」

そう観測すること。


それは賢さであり、優しさであり、共感であり、ぬくもりであると。


もちろん、一緒にいたくない人にそんなことをする必要はない。

でも、わざわざ傷つける必要もない。

だまって離れて、二度と近づかなければいい。

それでも離れられない場合は「キモいんで近寄らないでください」と言えばいい。


それでも基本的には、「相手にとっての自分」であること。

「自分のために相手がいる」という、デフォルト設定を意図的に切り替える癖をもつこと。

自らを、その人をうつす、よき鏡として設定し直すこと。

これは処世術としてもかなり効能が高い。


実際、人は人を鏡にして自分を認識している。

「自分」というのは、ひとりぼっちでは生じない。

人は誰かによって「誰か」になっている。


たとえば僕がコンビニの店員だったとして、

見ず知らずの誰かにとって「店員A」でしかないから、そこにうつるのは「店員A」としての僕でしかない。

けれど、僕の友人がそこにいれば、その友人にとっての僕は「店員として働いている僕」になる。

僕の意味は、誰に観測されるかによって変わっている。


だから、よりよい写し方をしてくれる人に出会えると気持ちがいい。

知らない自分を発見できたり、見落としていたポジティブな側面に気づかせてくれたり、またはどうしようもない欠点を諭してくれたり。

そういう人は、よき友人であり、よき師匠なのである。


人は、誰かに写してもらって、はじめて誰かになっている。

そこに例外はない。

だから、あなたも常に、誰かの鏡になっていることを意識すること。

それはとても自然で、健康的なことである。

師匠から教わった、鏡の法則のお話なり。


つづくぅ!!


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