温かいスープと雪見だいふく
鞄に必ずいれておきたいものの一つに本がある。
取り出さない日も勿論あるのだが、やっぱり「本を持っていること」の安心感は計り知れない。
その本を読むことと、場所と、時間と、季節がはっきりと記憶に刻まれるからだろうか。
今年はやけに本を読んでいる気がする。
学生時代、教科書を読むのが好きだった。
何度も読み返してしまって、終いには下部に記載されている注釈や作者のプロフィール、出版社情報まで舐めるように眺めていた。
一学期が終わる頃には、幾度となく捲れられた頁たちは広がってしまい、表紙は少し擦り切れていた。
大人になった今、ふと教科書に載っていた話たちを思い出す。
きっとそれは季節を感じるスピードが早くなり、その作品たちの登場人物の年齢に近づいたからでもあり、授業で教えられた心象風景や情景は実は都合のいいように解釈されていたのだと気が付いてしまったからかもしれない。
好きなことを仕事にしていても心底疲れてしまう時はあるものだし、最近は身震いをしてしまうほどの寒い日がやたら続く。
ああ、ご飯を作るのさえ億劫だし、私はいま温かいスープを飲んで、誰かの優しさに触れたい気分なんだ、と雨で気温が初冬くらいまで下がった夜に、1週間休むことなく動き続けた身体と心はもう悲鳴をあげていた。
電車の窓に反射する自分を見て、なぜか教科書に載っていた話を思い出した。
どんな話だったっけと思いながら
『温かいスープ パリ 教科書』と打ち込む。
そうだ、今道友信さんの『温かいスープ』だ。
教科書に載っている話たちの中でも上位にくる好きな話だった。
(1番好きなのは川上弘美さんの『神様』。最近また読んでやはりいいとなっている。)
隣人愛などというものは中学生では到底理解することなど出来ず、ただ私はこのレストランの人たちのように小さな優しさや温かさを人に与えられるくらい余裕を持っていたいなんて感想を抱いていた気がする。
中学生の自分よ、私にはそんな余裕を常に持てるキャパシティは持っていなかったよ。
でも、隣人愛を少しづつ理解はしていて、そして気持ちだけを持つのではなくいかに行動として移せるのかがより大切で、それは伝えることの1つの手段でもあるんだよ。
行動は時に言葉よりも重く響く。
余裕がある人と、ない人。
他人に優しくできる人と、出来ない人。
どこで差がつくのだろう。
考え方の差なのか、それとも経験値なのか。
ピノとか雪見だいふくとかそういうのを半分こできる人は優しいなと思う。
「半分食べていいよ。」と言われた時に
ハッと、自分に相手に渡してあげられるだけの余裕がないことに気がつく。
優しいね、ありがとう。
余裕を持てずに当たってしまって、ごめんね。
そんな言葉と共に飲み込んだそれは馴染み深い味がした。
レストランの人たちのような、
少量のアイスを半分こできるような、
そんな人になれたなら。
そういえば、『温かいスープ』を読んだのもひどく寒い冬だった。
そして、冬には決まって雪見だいふくが食べたくなる。