いつも誰かを救いたいと思っていた。
久しぶりのフランボワーズです。
今日のお題は
私自身、書くことは好きだけれど文章力があると過信しているわけでもないので、こんな風に言ってもらえてとてもとても嬉しい。
ありがとう。
そもそも、どうして文章を書き始めたのかというと
自らの発信と内発的な衝動を分散させる為。
そして、祖父へのある種の畏敬もあったと思う。
私の祖父はゴーストライターをしていて、いつか自分の本を出すことを夢に見ていた。
幼い頃の私はその姿を間近で見ていて、彼の仕事への姿勢と本に対する愛情は慄くぐらいのものであった。
小学生の頃の作文の推敲は彼にやってもらっていたから、もちろん私の作文にはいつも何らかの賞がついた。
(ちっちゃなズルだけれど、今思うとこれらが書くことへの自信につながっているのだと思う。)
いつの頃からか、書くことが生きることへの表現のようになっていた。
変わらない日々の中の微妙な変化を感じ取り、それを自分の中で消化し言葉として紡ぐことが私の生きることそのものになっていた。
言葉を紡ぐことが好きだ。
だから、家族や友達には節目ごとに手紙を書く。
年々、書いていると自然に文章力、元より自分自身が発したい事を明確に書けるようになってきた。
今こうしてnoteに投稿して読んでもらえるのも、そのおかげかもしれない。
書いて書いて、それを発信して、他の方の文章を読んで吸収して、それをどうにか言語化してまた書いて、というのを繰り返しているだけなのだけど
それでもまだまだ足りないと感じる。
こんな拙い文章でいいのだろうか、私の文章はあなたに響いているのだろうか、とか常にちょっとしたネガティヴな感情はついてまわってくる。
それを払拭してくれるのも、また書いて公開したときにもらえるスキやコメントだったりするから単純なものだと思う。
私は文章とコーヒーで人を救いたいと思っている。
この二つは私の強みであり、支えでもある。
そして願いでもある。
私が淹れたコーヒーであなたが幸せになってくれますように。
私が綴った言葉であなたが救われますように。
そう、ずっと、願っている。
だから、拙くても私はずっと言葉を紡ぎ続けるのだろう。
読んでくれている方々、いつもありがとうございます。
あなたたちがいるから私は此処に立っていられます。
これからもどうぞよしなに。