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AI小説・『地下に咲く花』


第一章: 雨の日の訪問者

雨は朝から途切れることなく降り続いていた。窓ガラスを伝う水滴が、規則正しく弧を描いて地面に落ちていく。狭いアパートの一室に、湿気を帯びた空気とともにラジオの音が流れていた。

「今日も各地で大雨が続き、通勤や通学に影響が出ています……」

翔(しょう)はその音に耳を貸すこともなく、テーブルの上に広げた求人情報誌をぼんやりと眺めていた。赤ペンでつけた丸がいくつも重なり、紙面はしわくちゃだ。もう何度読み返したかわからない。ページをめくる手が止まり、彼はため息をついた。

「おい、翔。いつまでその面してんだよ」

部屋の隅でタバコをふかしていた旧友の正樹(まさき)が、不機嫌そうに声をかけてきた。正樹は高校時代の友人で、今は街の便利屋で働いている。彼がこのアパートにふらりと現れたのは、たまたま仕事の合間に立ち寄っただけだ。

「いや、もうさ。まともな仕事なんか残ってねぇよ。大学落ちてから全部狂ったまんまだ」

翔は苦笑いを浮かべ、正樹の方を見た。その目はどこか虚ろで、未来への期待なんて欠片も残っていないようだった。

「……お前、家庭教師とかやってみねぇか?」

正樹の口から出た言葉に、翔は一瞬聞き間違えたかと思った。

「家庭教師? 俺が?」

「ああ、俺の客だ。村瀬っていう金持ちの家。お嬢さんの家庭教師を探してんだとよ。お前、口は上手いし、頭だって悪くねぇだろ?」

「冗談だろ。大学も行ってないやつに、誰が教えられるかよ」

「お前、意外と頭いい顔してんだから、黙ってりゃバレねぇよ」

正樹はタバコを灰皿に押しつけながら、翔に薄い笑みを向けた。その顔には、どこか試すような表情が滲んでいた。冗談だと思いながらも、翔は少しの間、沈黙した。

「時給、二千円だってよ」

その数字に、翔の目が僅かに揺れた。正樹はその反応を見逃さず、畳みかけるように言う。

「とにかく面接行ってみろよ。なぁ、ダメなら俺が謝ってやる」

翔はしばらく考え込んだが、結局、頷いた。断る理由が見つからなかった。あるのはただ、空っぽの財布と、無職という肩書だけだ。


その日の午後、翔は正樹から教えられた住所を頼りに、村瀬家へ向かった。雨は相変わらず止む気配がなく、傘を持っていても服の裾はすぐに濡れてしまう。

「……どんな家なんだよ」

電車を乗り継ぎ、ようやく辿り着いたその場所は、予想を遥かに超えていた。門構えだけで、翔の知る世界とはまるで別物だ。まるで映画に出てくる豪邸のようで、濡れた靴で敷地に足を踏み入れることさえためらわれる。

玄関のインターホンを押すと、モニター越しに上品そうな女性の顔が映った。

「……はい?」

「あ、あの……正樹さんの紹介で来ました、家庭教師の面接に……」

「ああ、そうでしたね。どうぞお入りください」

扉が開き、翔は緊張しながら中へ入った。リビングへ通されると、目の前には完璧に整えられた室内が広がる。白を基調とした家具、広々としたソファ、そして壁に飾られた絵画が、ここが自分の世界とは違うことを嫌でも思い知らせる。

「初めまして、村瀬です」

声がして振り向くと、そこには優雅な笑みを浮かべた村瀬夫人が立っていた。彼女は上品で気品があり、まるで別世界の人間のようだった。

「どうぞ、こちらにお座りください」

促されるままソファに腰を下ろし、翔は面接を受けた。夫人は熱心に娘の教育について語り、翔にいくつか質問を投げかける。その度、翔は覚えたての敬語を駆使し、取り繕った笑顔で応対した。

やがて夫人は安心したように微笑み、静かに言った。

「……あなたに、お願いしたいと思います」

その瞬間、翔の胸には安堵と共に、奇妙な達成感が広がった。しかしその奥底には、まだ拭えない違和感が残っていた。


帰り際、翔はふと、廊下の端にある小さな扉に目を留めた。他のドアと違い、古びた鉄製のような扉がひっそりと佇んでいる。

「……あれ、なんだ?」

小さく呟いた彼の声は、雨音に紛れて誰にも聞こえなかった。

第二章: 新しい生活

翔は村瀬家の家庭教師として働き始めた。週に三日、午後から夕方にかけて、村瀬家の娘・沙織に英語と数学を教える。それはまるで、別世界に迷い込んだような時間だった。


村瀬家は完璧な家だった。豪奢なリビング、最新の家電が並ぶキッチン、廊下には名画らしき絵が並んでいる。しかし、その完璧さに包まれた空間には、どこか冷たく無機質な空気が漂っていた。

「沙織ちゃん、次の問題やってみて」

翔がテキストを指差すと、沙織はうつむきながら鉛筆を動かした。彼女は無口で、どこか怯えたような目をしている。村瀬夫人は「少し人見知りなんです」と言っていたが、それだけではない気がした。

「先生、これ……できた」

沙織が小さな声で答え、ノートを差し出す。翔は笑顔を作り、頭を軽く撫でた。

「いいじゃん、完璧だよ」

沙織の口元がわずかに緩んだ。その表情を見て、翔は少しだけ安堵する。金持ちの娘だからといって、幸せとは限らない――そんな当たり前のことを、この家で少しずつ感じ始めていた。


「あのさ、兄ちゃん、私も行けるんじゃない?」

ある夜、帰宅した翔を待っていたのは妹の陽菜(ひな)だった。陽菜は高校卒業後、アルバイトを転々としているが、今も定職にはついていない。

「……何が?」

「村瀬家よ。お前、アートの先生が辞めたとか言ってたじゃん。私、絵は得意だから紹介してよ」

翔は眉をひそめた。

「バカ言うなよ、あんな家に関わるのは俺一人で十分だ」

「何それ? 時給二千円の仕事、私にやらせたくないわけ?」

陽菜の目には、どこか鋭い輝きがあった。翔はため息をつきながらも、何も言い返せなかった。妹の生活も苦しいことは知っているし、自分一人でこの状況を抱えることへの不安もあった。


次の日、翔は村瀬夫人に陽菜のことをそれとなく紹介した。

「アート教室の先生? 妹さんが……?」

夫人は驚いた表情を見せたが、すぐに笑みを浮かべた。

「まあ、妹さんができるなら助かりますわ。沙織も絵が好きですし」

陽菜は翌週から、村瀬家の「アート講師」として働くことになった。


陽菜は予想以上にこの家に馴染んだ。彼女は要領がよく、沙織に絵の手ほどきをしながら、村瀬夫人の信頼も得ていく。リビングで陽菜と沙織が笑い合う姿を見て、翔は奇妙な居心地の悪さを感じた。

「……うまくやってるみたいだな」

陽菜が一人になったタイミングで声をかけると、彼女は満足そうに微笑んだ。

「ねえ兄ちゃん、村瀬家ってさ、何か変じゃない?」

「は?」

「完璧すぎるでしょ、この家。人の気配が薄いっていうか……」

翔はその言葉に反論できなかった。村瀬家には確かに「空っぽの完璧さ」がある。それが何なのか、はっきりとはわからない。ただ、気にしすぎだと言い聞かせ、翔は考えを振り払った。


数日後、村瀬家のリビングで翔はふと目にした。廊下の隅にある、あの鉄製の扉を。

「……何だ、これ」

翔は小声で呟き、扉に手をかけた。しかしその瞬間――

「そこには何もありませんよ」

背後から夫人の声がして、翔はビクリと体を震わせた。夫人は相変わらず優雅な笑顔を浮かべている。

「え、ああ……すみません。気になって」

「ええ、あれは古い物置です。今は使っていません」

夫人の言葉は穏やかだったが、その目には一瞬、冷たい光が宿った気がした。

翔は何か言いかけたが、結局やめた。胸の奥にわだかまる違和感が、少しずつ大きくなっていくのを感じながら。

第三章: 地下の秘密

村瀬家で働き始めてから一ヶ月が過ぎた。翔と陽菜は表向き順調に信頼を得ているように見えたが、二人は時折互いに目を合わせ、言葉にしない違和感を共有していた。

豪華な屋敷の中に漂う不自然な静けさ。完璧に整えられた生活空間に、家族の痕跡が希薄なこと。そして、あの鉄製の扉


「兄ちゃん、やっぱりアレ、開けてみない?」

陽菜が小声で囁いたのは、村瀬家の広いリビングで沙織が絵を描いている時だった。
翔は少し迷った顔を見せたが、口を固く結んだ。

「バカ言うな。見つかったら終わりだ」

「でも、気になるでしょ? あんな目立つ場所にあって、何もないって変じゃない?」

陽菜の目は挑戦的に輝いている。その表情を見て、翔はため息をついた。妹は一度こうと決めたら引かない性格だ。


その夜、翔と陽菜は村瀬家の仕事が終わった後、屋敷に忍び込むことにした。

雨は再び降り始めていた。村瀬家の庭を静かに抜け、裏口からこっそり侵入する。二人は靴を脱ぎ、音を立てないように廊下を進んだ。

「……陽菜、静かにしろ」

翔が振り返ると、妹は目を輝かせながら鉄製の扉の前に立っていた。

「鍵、掛かってないじゃん」

陽菜が小声で言い、ゆっくりと扉の取っ手を回す。ギィ……という重い音が、静まり返った屋敷に響いた。

階段が続いていた。暗く湿った空気が漂い、地下室へと続くその空間はまるで洞窟のようだった。

「……行くのかよ」

「当たり前でしょ」

陽菜が懐中電灯を照らしながら先に進む。翔も覚悟を決め、後に続いた。


地下室は想像以上に広かった。埃っぽい空気に混じって、どこか異様な匂いがする。古い家具や段ボールが無造作に積まれ、その奥には布で覆われた物体があった。

「何だよ、これ……」

陽菜が恐る恐る布をめくると、そこには古びた寝具と小さなテーブル。まるで誰かがここで暮らしていたかのような生活の痕跡があった。

「……人が住んでた?」

「おかしいだろ。こんな場所に?」

翔が驚きの声を上げると、その背後で音がした。

カタッ

二人は息を飲んで振り返る。闇の中に微かな動き――。懐中電灯の光が捉えたのは、やつれた顔をした一人のだった。

「だ、誰だよ……!」

男は薄笑いを浮かべながら、二人に近づいてくる。服は汚れ、目には狂気とも取れる光が宿っていた。

「……お前たち、何をしている……!」

翔が男に詰め寄ろうとした瞬間、男は突然叫んだ。

「出ていけ! ここは俺の場所だ!」

その声に、二人は反射的に後ずさる。男は震える手で天井を指差しながら続けた。

「あいつらが、俺をここに閉じ込めたんだ……! 村瀬のヤツらが! 俺の人生を、全部奪ったんだ!」


二人は震えながら地下室を飛び出し、鉄製の扉を閉めて鍵を掛けた。息が上がり、鼓動が耳元で鳴る。

「……今の、何だよ」

陽菜が青ざめた顔で呟く。翔も言葉が出ないまま、唇を噛みしめた。


翌日、翔は何事もなかったかのように村瀬家を訪れたが、その日は妙に静かだった。沙織の母・村瀬夫人が、いつもと変わらない微笑みで言う。

「翔さん、昨日は雨がひどかったですね」

その言葉に、翔の背筋が凍った。彼女の笑顔は相変わらず美しいが、どこかに薄い膜のような冷たさがある。

「昨日の夜、何か音が聞こえた気がしましたけど……大丈夫でした?」

夫人の瞳が、まるで全てを見透かすかのように翔を見つめている。

「いえ、何も……」

翔はその場を取り繕ったが、夫人の表情は微動だにしなかった。

その日、翔は帰り際に再びあの鉄扉の前を通った。鍵は掛かっているはずなのに、気のせいか、扉の向こうから誰かの気配がする気がした。

そこに潜むのは、秘密なのか、それとも……。

第四章: 鍵を握る影

翔と陽菜は村瀬家の地下室で出会った謎の男――やつれた顔、狂気に満ちた眼差し――その存在が頭から離れなかった。何も知らない村瀬家の人々が、日常を送っていることに二人は強烈な違和感を抱く。

「あの男、村瀬家に何をされたんだ……?」

翔は家に戻ると、何度もその言葉を繰り返した。陽菜もソファに座り込み、疲れ切った顔で考え込んでいる。

「兄ちゃん、もうあの家ヤバいよ。私、仕事辞める」

「待て、今辞めたら逆に怪しまれる」

「じゃあどうするの? あの男、放っておけるの?」

翔は答えられなかった。あの男の叫びは明らかに真実を訴えていたが、それを村瀬家に伝えることはできない。もし彼らが何か隠しているのなら、翔と陽菜はただの“侵入者”として切り捨てられるだろう。

「……あの男のことを、もっと調べるしかない」


翌日、翔は村瀬家に着くと、村瀬夫人の様子が少し違うことに気がついた。彼女の微笑みは相変わらずだが、どこか探るような目つきをしている。

「翔さん、最近何か……気になることはありませんか?」

「え?」

「……例えば、夜中に妙な音が聞こえたり、誰か見知らぬ人が家に入り込んだりとか」

夫人の言葉に、翔の背中に冷たい汗が流れる。だが彼はなんとか笑顔を作り、首を振った。

「いえ、特に。静かでいい家だなって、いつも思ってます」

「そうですか。それなら良いんですけど……」

夫人はどこか意味ありげに微笑むと、沙織の部屋へと戻っていった。


その日の夕方、陽菜と共に翔はもう一度地下室へ向かった。何か手がかりが残されているかもしれない――そんな一縷の望みにすがりつくように。

「……翔、こっち見て」

陽菜が埃まみれの古い段ボールを開けると、そこには数枚の写真と書類が詰め込まれていた。

「これ……村瀬家の家政婦? 」

写真には、数年前に働いていたらしい女性の姿が映っている。その笑顔はどこか固く、背景には村瀬家の地下室の扉が写っていた。

さらに、書類の一部には見覚えのある名前が記されていた――篠塚 幸司(しのづか こうじ)

「……あの男か」

翔は息を呑んだ。篠塚の名前の横には「契約解除」の文字。そしてその下には、わずかに破られたメモの一部が残っていた。

『地下――』
『監視』
『村瀬哲也』

村瀬哲也――村瀬家の家長の名前だ。


その時、地下の奥から物音がした。

「……誰かいる」

翔と陽菜は息を殺し、光を消す。闇の中、靴音がゆっくりと近づいてくる。

「出てこい……隠れても無駄だぞ」

低い声が響き渡る。篠塚だ。彼の姿が懐中電灯の光の中に浮かび上がった。

「お前たち、何を探っている」

篠塚の目には、かつての狂気は薄れ、代わりに深い諦め怒りが宿っていた。

「アンタ……一体何なんだ。ここで何をしている?」

翔が勇気を振り絞って問いかけると、篠塚はゆっくりと口を開いた。

「俺は、ここに閉じ込められたんだ――村瀬家の秘密を知ったせいでな」

「秘密……?」

篠塚は天井を見上げ、小さく笑った。

「村瀬哲也は、ただの成功者なんかじゃない。彼は他人の人生を奪って、のし上がったんだ。俺はその証拠を見た」

「証拠って……」

篠塚は段ボールの中に手を伸ばし、古びたノートを取り出す。

「これが全てだ。この家の地下は、哲也の罪と嘘を埋めるための場所だ。だが奴は俺を見つけ、この地下に閉じ込めた。俺が出れば、全てが崩壊するからな」

篠塚の手は震え、目には涙が滲んでいる。

「アンタ、それを公にすれば――」

「できるわけがない。この家は俺の逃げ場だ。だが……お前たちなら、外に出て暴けるかもしれない」

篠塚はノートを翔に押し付ける。

「頼む……このままじゃ、俺の人生は本当に無駄になる」

翔はノートを握りしめ、篠塚の瞳を見つめた。その目には確かな真実の重みがあった。


地上に戻った翔と陽菜は、村瀬家の豪奢な屋敷を見上げた。

「兄ちゃん、どうするの……?」

陽菜の声は震えている。翔はノートを見つめ、唇を噛んだ。

「決めるしかない。あの男の言うことが真実なら……」

その時、屋敷の窓から村瀬夫人が静かに二人を見つめていることに気がついた。彼女は微笑んでいたが、その笑みはもはや優しさではなく、冷徹な何かに見えた。

「……俺たち、踏み込みすぎたかもしれないな」

雨はまた降り始め、二人の肩を静かに濡らしていった。

第五章: 崩壊の序曲

豪雨が村瀬家の屋敷を包んでいた。空は暗く、まるで世界そのものが沈んでいくかのように重苦しい。

翔は、篠塚から渡された古びたノートを握りしめていた。その中には、村瀬哲也が過去に犯した数々の「不正」と「隠蔽」の記録が詳細に記されていた。会社の経営権争い、裏切り、密告者の失踪――そして、最後には地下室で幽閉された者たちの存在。

「……信じられないな」

翔の呟きに、陽菜は固い顔で頷いた。

「これ、警察に届けるべきじゃない?」

「だが証拠はこのノートだけだ。こんなもの、金と権力で潰されるに決まってる」

「じゃあ……どうすんの?」

翔は沈黙したまま、窓の外の雨を見つめた。降り続ける雨が、村瀬家の完璧な外観を少しずつ汚していくように見えた。


その晩、村瀬家では大規模なパーティーが催されていた。招待されたのは地元の有力者や経営者たち。美しく飾りつけられた屋敷に、高級なワインと料理が並び、笑い声が絶えず響いていた。

翔と陽菜は、村瀬家の仕事の一環としてその場にいた。だが二人の心は騒然としていた。

「ねえ、兄ちゃん……本当に今、やるの?」

陽菜が小声で言う。翔はノートを内ポケットに忍ばせながら、無言で頷いた。

「今しかない。この騒ぎの中なら、誰も気づかない」


午後8時過ぎ
豪華なパーティーの最中、翔は地下室へと向かった。誰にも見つからないよう、廊下の影を縫うように進む。陽菜は別の場所で時間を稼ぐ役目だ。

鉄扉の前に立つ。翔は一度深呼吸し、ゆっくりと扉を開けた。

地下室はいつものように湿り気と暗闇に包まれていたが、翔はその奥に篠塚の姿を見つけた。

「お前……」

篠塚は息を荒げ、目を見開いている。

「ここに来るな! 早く戻れ、奴らが気づいてる!

「どういうことだ?」

篠塚が指を震わせながら天井を指す。その瞬間、地下室の入口がガチャリと音を立てて閉じられた。

「……嘘だろ」

翔は駆け寄ったが、鉄扉は内側からは開かないように施錠されている。静かな屋敷の中で、翔の鼓動だけが耳元に響いた。


一方、陽菜はリビングにいた。パーティーに紛れて時間を稼いでいたが、村瀬夫人が突然彼女の前に現れた。

「陽菜さん、少しお話ししましょうか」

陽菜は背筋が凍りつくのを感じた。夫人の笑顔はいつもと変わらないが、その目には鋭い光が宿っていた。

「あなたたち……何をしているんですか?」

「な、何のことですか?」

「とぼけないでください。あなたたちが何をしているのか……もう全て知っていますよ」

夫人の声は低く、冷たい。陽菜は言葉を失った。


地下室では翔が扉を必死に叩き続けていた。

「おい、開けろ! ふざけんな!」

だが扉の外から返事はない。篠塚が壁にもたれかかり、静かに呟く。

「俺は言っただろ……村瀬家に逆らえば、こうなるって」

「じゃあ、あんたは諦めるのかよ!」

翔の叫びに、篠塚は虚ろな目で天井を見つめた。

「諦めるも何も……もう終わってるんだ」

その時、ドンッという鈍い音が地下室に響いた。翔が振り向くと、天井から水が漏れ始めていた。

「……何だ、これ?」

雨水が天井の隙間から滲み出し、ポタポタと床に落ちる。だがその水は次第に勢いを増し、まるで地下室全体を飲み込むかのように流れ込んできた


一方、リビングでは村瀬夫人が陽菜を見下ろし、静かに言った。

「あなたたちは……踏み入れてはいけない領域に足を踏み入れました」

「兄ちゃんは……兄ちゃんはどこ!?」

「安心してください。もうすぐ――会えますわ」

その瞬間、屋敷全体が停電した。パーティーの参加者たちが悲鳴を上げ、辺りは暗闇に包まれる。


地下室では翔が必死に水に抗い、篠塚を引きずり起こしていた。

「まだ終わってない! 出口を探すんだ!」

だが水位はどんどん上昇し、足元を越え、膝へと迫る。篠塚は動かず、ただ小さく呟いた。

「お前もここに閉じ込められるんだ……俺と一緒に……」

「ふざけるな!」

翔は叫びながら、地下室の隅に見えた小さな通気口へ向かった。それはかろうじて外へ繋がっているかのように見える。

「篠塚、ここだ! こっちに来い!」

だが篠塚は動かない。ただ暗闇の中で、笑っているように見えた。

「もういいんだ……」


水は翔の胸元まで迫り、彼の視界は次第に霞んでいく。通気口の向こうには、かすかな雨音が聞こえた。

「……助かるんだ、俺は……!」

翔は最後の力を振り絞り、通気口に向かって這いずる。その先に見えたのは、暗闇の中でわずかに光る雨上がりの空だった。


その頃、屋敷の中では村瀬夫人が窓の外を静かに見つめていた。彼女の背後で、村瀬哲也が無言で立っている。

「これで……また全てが静かになりますね」

雨はやがて小降りになり、村瀬家の屋敷はいつものように静寂に包まれていた。

第六章: 雨上がりの静寂

翔の意識が戻った時、彼は冷たい泥の中に横たわっていた。雨は止み、灰色の空にわずかな光が差し始めている。視界の端には村瀬家の巨大な屋敷が、静かに、何事もなかったかのようにそびえていた。

「……生きてる、のか……」

翔は震える手で体を起こし、周囲を見渡した。服は泥だらけで、体中が痛む。どうやら通気口から流された雨水が、彼を屋敷の裏手にある排水溝へと押し流したらしい。

陽菜――

翔の頭に妹の顔が浮かんだ。慌てて立ち上がり、屋敷を振り返る。あの場所に、陽菜はまだ残されているのではないか。胸の中に焦燥と罪悪感が渦巻き、翔はふらつきながら屋敷へ向かおうとした。

その時、後ろから声がした。

「……兄ちゃん!」

振り返ると、そこには泥だらけの陽菜が立っていた。髪は乱れ、顔には涙の跡が残っている。

「陽菜……!」

翔は駆け寄り、妹を抱きしめた。

「どうやって……?」

「停電した時、隙を見て逃げたの。……兄ちゃん、よかった……生きてて……」

陽菜の声は震えていた。翔は胸を撫で下ろしながらも、二人で見た村瀬家の「秘密」が頭を離れなかった。

「……終わったわけじゃない。篠塚は……まだあそこにいる」


村瀬家の屋敷は翌日、何事もなかったかのように静寂に包まれていた。パーティーの混乱については「停電によるもの」と報じられ、誰一人として地下室や篠塚の存在に気づく者はいなかった。

翔と陽菜は、もう村瀬家に戻ることはなかった。

二人はアパートの一室に戻り、篠塚から預かった古びたノートをテーブルの上に置いた。そこには村瀬家の闇が克明に記されている。

「これを持って、どうする……?」

陽菜が静かに問う。翔は答えず、ノートをじっと見つめていた。

「これを公にすれば、村瀬家は終わるかもしれない。でも……」

「でも?」

「……俺たちの人生も終わる」

村瀬家の力がどれほど強大かは、すでにわかっている。警察やメディアに届けたところで、彼らの手によってすべてが握り潰されるだろう。そして、翔たち自身にも報復が及ぶ可能性は高い。

「篠塚は、どうなるの?」

「わからない。でも、あの場所で……」

翔は言葉を詰まらせた。篠塚が地下に残ったのは、彼自身の選択のようにも見えた。彼は自ら「村瀬家の闇」の象徴となることで、その存在を世間から隠し続けてきた。


数日後、翔は一人で村瀬家の前まで足を運んだ。屋敷は相変わらず豪奢で、鉄の門越しに見るそれは、まるで絵画の中の風景のようだった。

何も変わらない――あの地下室の存在すら、誰にも気づかれず、葬られる。

翔は苦笑し、手に持っていたノートを見つめた。その中にあるすべての真実を、彼は最後まで世間に晒すことはできなかった。

「これで……いいんだろうな」

呟きながら、翔はノートを燃やすことにした。小さな火がノートの端から広がり、村瀬家の秘密は静かに灰になっていく。

炎が消えた後、翔は空を見上げた。雨上がりの空には、わずかな青が顔を覗かせていた。


数年後

村瀬家の屋敷は取り壊され、跡地には高層マンションが建設された。その華やかな外観には、過去の「地下室」の痕跡など、どこにも残されていない。

翔と陽菜は別々の道を歩み、再び村瀬家について語ることはなかった。ただ時折、雨が降るたびに翔はあの時の泥と雨音を思い出す。

「何も残らない。ただ、それが正解だったのかもしれない」

雨上がりの静寂の中で、翔はそう呟いた。

村瀬家の秘密も、篠塚の叫びも、地下に埋もれたまま――それでも世界は何事もなかったかのように回り続ける。

おわり

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