その背中を見守れる人になりたいねって話。
感動的な1本目の日記からだいぶ時間が経ってしまった。友人のために書き続けよてみようと思ったものの、怠惰で飽き性の僕は、結局友人との電話を隔週で繰り返すということで、その目的を果たしている。
今回は自分の話を、徒然なるままに書いてみる。
最近、ある人の影響で映画をよくみるようになった。特にヒューマン系は1日1本をみるようにしている。
これまで映画は「エンタメ作品!」と割り切り楽しんでいたけれど、最近では主人公や登場人物に感情移入し、「なんでこんな風に考えるんだろう?」「やっぱりその価値観って大事だよね!」なんてことを一人で考えながら鑑賞する毎日。
もともと考えることが趣味みたいな僕にとって、このルーティーンはとても学びが多く、結構楽しんでいる。
先週、はっとした気づきと感動を与えてくれた映画があった。
とにかく朝から泣いた。
正直監督とか役者とかは詳しくない。
ただただ号泣した。
多くを書くとネタバレになってしまう故、超スーパー簡易的にあらすじを。
僕が涙したのは、最後母親に鍵が何を開けるためのものだったのかを報告するシーン。
※ここからは本当にネタバレ。
実は主人公は自分の力で探し当てたと考えていたのだが、実は、母親が主人公が事件に巻き込まれないように、裏で先回りしていたんだよ という事実をカミングアウトする。
作中、主人公は鍵の正体を知るために、たくさんの人に話を聞きにいくのだが、その1人1人に母親が会いに行き、事情を説明し、協力を仰ぐ。例えリアルには子供との距離が離れていく中でも、子供を信じてその行動を続けるのである。
文章にするとかなりチープだけれど、これってすごいことじゃないか。
子供のためにレールを敷くでもなく、子供のやっていることを諭したり否定したりするでもなく、
ただ自ら動く子どもを見守りながら、その子がたくさんのことを無事に感じ取れるように、行く先々に落とし穴がないか、あったとしても落ちても大きな怪我をしないか、子供には気づかれないように先に確かめる。そんな行動ができる人間としての器に感銘を受けたし、その母親の愛に胸を打たれた。
過保護という言葉があるが、日常的に使われている過保護とは少しニュアンスが違う気がする。
過保護という言葉=「怪我をしないように行動を強制すること」
とするならば、
この作品上で描かれているのは
自発的な興味や行動力を静かに見守り、そしてその背中を信じること
と言い換えられないか。
僕自身、自分の思う正解を無自覚に伝えてしまことが多いというのが最近の反省点。
それはそれで良いこともあるんだけど、決して押し付けになってはいけないなあと思う。日頃から意識しているものの、押し付けがましく感じ取ってしまう人も中にはいたのではなかろうか。
愛を持って接するとは、単なる気持ちや考えの押し付けではなく、その人が何に悩み、何をしたいのかを一緒に考えてあげること。そして、見つけた彼らを信じ、背中を見守ることなんだろうと。
僕もいつかそんな人なりたいなと強く感じた今日このごろ。
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