「私を構成する5つのマンガ」と電車と私と
「私を構成するマンガ」って、おいおい言い過ぎだろ。
でも、いざ真剣に挙げてみる。すると、自分のターニングポイントを決めていたのはマンガだった。・・と、これはホントに言いすぎか、、、
でも、そんなとき、鞄の中に入っていたのはいつもマンガだったように思う。
***
いつも同じ車両の定位置の席で、スイッチOFF。マンガを鞄から取り出す。
仕事帰りの電車でマンガを読むことが、大人になってから楽しみだった。
電車は僕にとってマンガを読むには絶好の場所。通勤なら決まった1時間なら1時間と時間が決められていて、1時間もあれば かなりのマンガを読むことができた。また、ほとんどが図書館くらい静かな空間で、僕を目の前の作品に異常なくらい集中させた。
ああ、網棚がマンガの本棚になってればいいのに。
とさえ思ったことがある。それくらい僕にとってはマンガを読むのに電車は絶好な場所だった。
しかし、幸せな時間と感じる一方で、僕の中には常に後ろめたさがあった。
「電車でマンガを読んでる大人を見てると恥ずかしくなる。お前は本をたくさん読みなさい」とじいちゃんに小学生のころ言われ続けていたからだ。
電車でマンガを読んでいると、この言葉を必ず思い出してしまう。これはもはや亡き祖父の呪縛だと思っている。だから、今でも電車でマンガを開くときはその呪縛を感じながら、こそこそとマンガを読んでるような気分になる。
***
今はマンガを読む時間がグっと減ってしまった。自転車通勤になってしまったのだ。それでも鞄にはいつもマンガを忍ばせている。食堂で読むマンガは電車の中で読むそれより全然集中できないけど、食堂でマンガを読む30分足らずの時間が、僕の今のマンガ時間です。
そんなわけで、アルのこの企画に応募するつもりで――
『あひるの空』と出会うまでの”僕の鞄”に入っていたマンガを思い出しながら書いてみました。良い記事は↓↓↓ココで紹介されるみたい。選ばれたいなぁ~
思いつく順でパッパッと挙げた作品だけど、時系列はだいたい右から左に。ということで、「 #私を構成する5つのマンガ 」を←←←の順で、電車の思い出と共に書き綴っています。
「タッチ」と電車と私
今でこそ思うが、僕は”浅倉南”に恋していたのかもしれない。
僕は小学生の頃、毎年の夏休みが楽しみで仕方なかった。それは小学生誰しもがそうかもしれない。でも、「勉強しなくていいぜぇ!うぇ~い」とか、「1日遊んでいられるぜ!ヤッホー」とか、僕のモチベーションはそんなものではなかった。
浅倉南に会える。
ただそれだけだった。
あの頃、夏休みになると午前10時頃からアニメ『タッチ』がテレビで毎年放映されていた。母が好きで一緒に観ていたのが『タッチ』を観始めたきっかけだったと思うが、いつしか自分1人で観たいと思うようになった。そして、パートに出るようになった母が午前中いなくなったことで、そうなっていった。
友達と朝から遊んでいたとしても、この時間だけは適当な理由をつけて自宅に帰っていた。というより、浅倉南に会いに行った。という感覚だった。
「南に毎日会いにに来てくれてありがとう」
時折ふいに挟まれる浅倉南のお色気シーンは毎日足を運んだ僕へのご褒美だった。
そしていつしか僕は”上杉達也”に憧れるようになった。
なんか頭1つ飛びぬけた感じ、
考えていないようでめちゃくちゃ考えてる感じ、
さりげない優しさ、
男の僕でも惚れてしまうくらい上杉達也がカッコ良く映った。でも、そのカッコ良さに憧れたわけではない。「上杉達也」になれば浅倉南のような人に出会えるのではないかと思ったからだった。
いよいよ僕は上杉達也と同じ高校生になった。そして、僕の「浅倉南」に出会う。南ちゃんには程遠いと言ったら失礼かもしれないが、程遠かった。それでも、そのまま「浅倉南」と結婚し、子どもを授かった。
***
夏休みのアニメは2話連続で放映していたが、毎年のように最終回を見届けることはなく夏休みが終わる。そもそも最終回まで放映していたかも定かではない。だから、『タッチ』の最終回はずっと気になっていた。
「最終回で甲子園にいくんだぜ」とか、
「浅倉南と結婚するんだぜ」とか、
「タッチ」を観ていた友達の間では情報が錯綜していた。
本当の最終回って・・
そのつっかかりを解消すべく、ついに文庫版なるもので『タッチ』を手に入れることにしたのは、息子が生まれ、もういい大人になってからだった。
それまで「文庫版」の存在意義がどうしても解らなかった。でも、電車の中でそれを開いたとき、
ああ、文庫版って俺のためにあったんじゃん。
と思った。なぜなら、カバーをしてしまえば、俺マンガ読んでないっすけど。えっ? コレ小説ですけど、何か? と装える。
仮にじいちゃんと電車を乗り合わせたとしても、これで予防線を貼ることができた。もし、じいちゃんのような考えの人と乗り合わせたとしても、大人になってマンガを電車で読むことにうしろめたさを感じる僕のような人が生まれないと思ったら、人を1人救えた気がした。と、これは言い過ぎか。
***
『タッチ』といえば、なんといっても「死んでるんだぜ それで…」のシーンだ。
えっ!?えっ!?えっ!? 和也とこれから競い合うんじゃないの?
子どもながらに初めて観たときは衝撃だった。
向かうべき方向がやっと見えてきたタッちゃんのこの気持ち。どうすれば処理すればいいのよ。何、この感じ。っぬああああって、この感じ。
のちに、それが「切なさ」であるということを知った。
文庫版では4巻にそのシーンは登場する。
すでにこのとき子どもがいた僕は、小学生だった頃に見えなかった和也の父・”上杉 信悟”、母・”晴子”にも目が行くようになっていた。
あの一連のシーンを追う。
きっとあの場面、マウンドに和也が上がらなかった時点で応援に来ていた信悟も、晴子も、只事ではない何かが起こっているのに気づいていたはずなんだ。それでも、慌てることなく、理由をつきとめることなく、観客席で応援を続けていた。
そこに病院から両親を呼びにきた達也が静かに登場する。何も言わずに父の袖をひっぱった。達也の顔を見て、信悟は確信したんだと思う。半ば無理やり信悟の腕を引きながら2人を球場の外へ連れ出そうとしようとする達也に、晴子も「どこいくの? 和也もいっしょなのかい?」と核心を避けながらも事の大きさを測るような聞き方をしているように僕には見えた。
その後、想像以上の現実を目の当たりにした慎吾と晴子が、まさに廃人となって映るコマは見ていられなかった。そして、霊安室に現れた南ちゃん。達也がボソッと「死んでるんだぜ? それで」と言った辺りから僕は涙を流すまいと、目を外へ背けては読み進め、また背けてを繰り返していた。電車の中じゃなかったら、ぼろクソに泣いていた。
***
結局、最終回はあのころ錯綜していた情報から大きくハズレているわけでもない最終回だった。
それよりも僕が印象深かったのは、最終回から数話前の話で、慎吾と晴子とこんなやり取りをするシーンだ。
慎吾:「和也のかわりにまさかあの達也がなァ」
晴子:「甲子園はそうですけど…南ちゃんにとっては 和也のかわりではなかったみたいですよ。達也は。」
慎吾:「できることなら…甲子園だけは和也にいかせてやりたかったな…」
晴子:「和也の本当にうれしそうな顔をみるのは、いつも一苦労だったわ。」
慎吾:「えっ?」
晴子:「だって、それには達也をほめなくちゃならないんだもの。」
<引用:あだち充(2000)/『タッチ』文庫版14巻 小学館/286~287ページ>
僕は終電近い中央線の中で最終巻を手に取りながら、妻とならこんな夫婦にはなれる気がした。
『シャーマンキング』と電車と私
ベンチャー企業に飛び込んだ21歳の自分を思い出す。
アルバイトで入社して1年経ち、社員として認められて初めて任されたお店に2時間くらいかけて通っていた。その頃は東西線を使っていた。
電車でマンガを読む楽しみを覚えたのが、この頃だった。
お店を締め、駅前のCDレンタル店がマンガのレンタルもしていることを知り、退屈だった電車が一変し、楽しみになった。
乗り換えも少なく、5・6冊を一気に読んでは翌日に返し、また借りるような毎日。これまでで一番マンガを読んだ時期だったかもしれない。
次第に1日で読み終えてしまう作品を楽しむことから、続巻がある! というワクワクを楽しむようになり、長編作品を借りるようになった。
そこで出会ったのが『シャーマンキング』だった。
えっ!? ここで終わるんかいっ!!!
32巻が最終巻であると知らなかった僕は、プツと切れた話に呆然とした。
だからなのか僕の記憶もプツと切れ、『シャーマンキング』がどういう話だったか全く思い出せなかった。それでも、”麻倉葉くん”のカッコ良さだけは残像のようにかろうじて記憶に残っていて、もし子どもが生まれたら「葉」の字を付けようと決めていた。
それから数年後、子どもを授かり、息子に「葉」の字を付けた。
東西線の中で読んで以来、『シャーマンキング』とは無縁の生活をしていたが、ふと見たどこかの情報で「完全版」では話がちゃんと完結していることを知り、再び『シャーマンキング』をちゃんと読み直そうと手に入れた。
届いたときはビックリしたよ。とにかく重い。重くしているのは紙の質なのだけど、これは武井宏之先生の魂の重さであるように感じた。クリア仕様の表紙カバーもカッコよかったし、「完全版」の名に相応しいこだわりが、色んなところに見えた。
そうそう、そんな感じだった。
でも、記憶していたよりはるかに深い話で、気づいたら初読のように夢中になって読んでいた。東西線で読んだ時も、きっとこんな風にかじりついて読んでいたんだろうな。
『幽遊白書』のような頭脳バトル、
『ONE PIECE』のような熱い友情、
『ドラゴンボール』のようなキャラクターそれぞれの芯の強さ、
どこか懐かしさを感じた。
そして、葉くんがやっぱりカッコ良かった。
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息子の授業で「自分の名前の由来」を調べてくる宿題が出されたようで、聞かれたことがあった。小学校に入って始めの方だったと思う。まさか、マンガの主人公から名前を採ったんだよ。とは言えず、妻にそうしたように、外向けの理由を教えることにした。
そして、彼は小学4年生になった。マンガを読むようになり、ふと彼の部屋を覗くと『シャーマンキング』が転がっているのを見つけた。僕の本棚からいつの間にか抜き取ったようだ。
僕はこの時を待っていた。
こちらは秘伝を授ける師匠のようなつもりで、もっといえば”マタムネ”になったつもりで、「実はお前の名前は”麻倉葉”からとったんだよ」と伝えた。でも、返ってきたのは「へぇ~」の一言で、全く想像していた展開にはならなかった。
君に届けたい思いは、15巻・16巻に書いてあるよ。
と言いたかった。でもそれ以上は言わなかった。いつか気づくことを信じてる。
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完全版を探してる時、『シャーマンキング』に続編があることも知った。そそのタイトルが『シャーマンキング FLOWERS』だという。
そう、娘には「花」の字を付けていた。これは全くの偶然だったと思っていたんだけど、最終巻の32巻を改めて読んでみると、最後の番外編に”花くん”という息子が出ていたことに気づく。記憶の片隅に残っていたのかな。
いずれにしても、自分の歩いてきた道は正しかったんだと勝手に思った。
『SLUM DUNK』と電車と私
僕の中学生時代は まさに”スラムダンク世代”ドンピシャで、先輩の邪魔にならないようにと体育館の舞台上に追いやられる新入部員が舞台に乗りきらず、舞台下にも溢れ、舞台下組が結局コート内にボールを転がしてしまって練習の邪魔をし顧問にめちゃくちゃ怒られていた――くらい、お前も? えっ!お前も?? バスケとは無縁だと思っていた同級生もバスケ部に仮入部していた。
でも結局、数日後には1人辞め、2人辞め、最後に残った同級生は8人だった。
練習がとにかく辛かったんです。今でこそ考えられないが、真夏の体育館でも窓を全て締め切り、水分も決められた時間にしか飲むことができなかった。37年生きているけど、アレ以上の体験をすることはもうないと思う。極限だった。もう立てない・・なんてマンガの世界だけの話だと思ってたら、ホントにああなった。
それに比べ、高校は自由だった。僕らの部活には監督がいなかったのだ。自由が故に衝突も多かったけど、それはそれで楽しかった。もちろん、「全国制覇」なんて まるで現実味のない言葉だったし、「インターハイ」だって結局どの大会がインターハイにつながってるのか分からないまま引退した。
それでも僕らなりに目の前の勝利を目指していたのは決して嘘ではない。
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遠征先に向かう電車の中で誰かが持って来た『SLUM DUNK』を回し読み、モチベーションを上げるのは恒例だった。
大抵持ってくるのは25巻~最終巻31巻までの6冊。つまり、湘北高校の大一番、”山王工業”戦だ。
僕らの最後もこんな劇的なものになるのだと根拠もなく思っていた。
相手は昨年、僕らが沈めた高校。
あの時は再々延長で勝利し、山王工業戦に匹敵するくらい劇的なものだった。
最後の夏も”劇的なもの”になる要素は揃っていた。はずだった。
でも蓋を開けたらあっけないもので、『スラムダンク』の言葉を借りるならば「ウソのようにボロ負けした」。
もっとも、僕は冬に発症した肉離れがこの戦いの1月前に再発し、出場時間は後半の数分しかなかった。
『SLUM DUNK』を改めて語りだしたらキリがなさそうなので、アルに残すことにしています。
ちなみに黄ばみを通り越して、茶ばみのスラダンはコレよ↓
スラムダンク世代の誰もがそうだと思うが、僕も”沢北”の家に憧れた一人だ。バスケットゴールのある家だ。
28歳の誕生日にゴールを買って、ついに憧れの沢北の家を再現した。
男の子が生まれて、沢北みたいに小さいころからバスケットボールに触れさせて、、とココまで来たところで「汚いからやめて」と妻に一喝され、計画は一時ストップした。
***
『SLUM DUNK』がなかったら、きっとバスケとの出会いもなかったと思う。バスケがなかったら、きっと180°違う世界だったに違いない。
だから、
”あなたの人生に影響を与えたマンガを1つ挙げるとしたら?”
と聞かれたら、迷わず「スラムダンク」と答えていた。
そういった意味では、これ以上に人生を与えたマンガはない。
と思っていた。
でも、あったんだ。
しかも2つも同時に、だ。
それが、『リアル』と『あひるの空』です。
えーっと、まだまだ続きます。。。
『リアル』と電車と私
この頃、もう僕は疲弊しきっていた。30歳の時である。
朝6時の電車で、帰って来るのは25時という毎日。寝るために家に帰っていたようなもので、あるとき「会社で寝た方が睡眠時間とれるんじゃないか」と思ったことをきっかけに、会社で朝まで過ごすことも増えていた。
このころ、ヒトは無理をしすぎると本当に壊れるということを知る。
ある時、耳を塞ぐ何かが生まれ、それは何カ月も続いた。
ある時、喉につっかえる何か生まれ、それは何カ月も続いた。
ある時、電車で寝てしまって、パっと起きると視界が真っ黄色になった。
ある時、満員電車のなか座っていたら、息が吸えなくなる衝動にかられた。
ある時、終電で寝過ごし、いっそのことなかったことにしたいと思って、そうだ車道に飛び出して車に轢かれたら……この時は、いよいよ俺ヤバイなと自覚した。
アル内の”『リアル』の好きなところ”で、その後のことを書き綴っている。
WEB版だと改行がつぶされるので、読みやすくしてみました↓
***
僕の運命を決めたのは『リアル』だった。
「運命」という言葉をこれまで信じたことはなかったが、あのタイミングで『リアル』が発売されたのはやはり運命だったのだ、と今だから思う。
転職を考えていた頃、ちょうど『リアル』の12巻が発表された頃だった。年に1度の発行ペースだった『リアル』は”復習”が欠かせないものになっていた。
1巻から持ち歩いて読んでいた。 そして、僕の復習は6巻まで進んでいた。 『リアル』の表紙は、その単行本の話の中心となる人物が主に描かれる。6巻は”高橋”が描かれていた。
最新刊が発売される度に1巻から読み返しているから、12巻が発売されたあの頃には、既にこの6巻は少なくとも6回は読んでいる計算になる。
でも、僕の手は止まり、電車の中だったにもかかわらず涙ぐんだ。
そこにはこう書かれていた。
息子の成長を見逃してまでがむしゃらに働いたその仕事は僕でなくてはならなかったのだろうか? そうじゃない気がしている
<引用:井上雄彦(2006)/集英社『リアル』6巻116ページ>
高橋の父親が離婚して以来数年ぶりに会った息子に告げた言葉だが、僕が諭されている思いだった。
僕はその帰り、初めて妻に転職を考えていることを告げた。妻は賛成でも反対でもなく「カズくん毎日できることが増えてるよ」とだけ言った。「カズくん」とは僕のことではない、当時2歳の息子のことだ。
僕は普段息子の寝顔しか見たことがなかった。休日は、息子と一緒に過ごしていたはずなのに、殆ど記憶に残っていない。休日は平日に出し切った精気を取り戻すのに必死だった。
息子は気が付けばしゃべってて、気が付けば歩いていた。
自分は誰のために働いているんだろう。
体を壊してまで働くことに意味があるのだろうか。 妻に言われた一言で、ハッとしたのを今でも覚えている。
父さん ぼくはレッグスルーができるようになりました。いつか 父さんに見てもらいたいです。そして またほめてもらいていです。だから…だから早く家に帰ってきてください。おねがいです。ずっとまってます。ずっとずっと… 久信
<引用:井上雄彦(2006)/集英社『リアル』6巻209ページ>
『リアル』6巻はこんな”高橋”の手紙で締めくくられる。離婚してもう帰ってくることのない父親に向けての手紙だ。
自分の息子にこんなことを言われたら……と感情移入し過ぎて、もはや涙無くして読めなかった。
そして、僕は腹をくくった。
***
そして、今 まさに高橋と同じように裏庭で息子とバスケをしてる。”沢北化計画”がまた始動した。
『あひるの空』と電車と私と音楽
手に入れる為に捨てるんだ 揺らした天秤が掲げた方を
こんなに簡単な選択に いつまでも迷う事は無い
その涙と引き換えにして 僕らは行ける
引用:BUMP OF CHICKEN/ ユグドラシル『同じドアをくぐれたら』
『あひるの空』と出会って、音楽と共にマンガを読むという新な次元へと足を踏み入れた。
『リアル』が”重力”であるならば、『あひるの空』は”呼吸”。
『リアル』は、今の僕をこの場所に立たせているもの。
『あひるの空』は、僕がこの場所に立ち続けるためになくてはならないもの。
って、かっこよく書いてるけど、「重力」と「呼吸」はミスチルのアルバムタイトルからの引用です。
こんな風に、最近は音楽とマンガは結びつけることが多くなった。
これは日向武史先生の描き方がそうだからだと思う。
***
転職活動をはじめ、何かを変えるきっかけとなればと思い、社会人バスケのチームに入ってバスケを再開した。
また、何かを変えるきっかけとなればと思い、『SLUM DUNK』に変わる新たなバスケマンガを開拓しようとしているとき、友達に紹介されたのが『あひるの空』だった。
”「あひるの空」で世の中を定点観察してる日向武史先生のファンです。”とかいってるけど、連載開始からずっと追っていたわけではなくて、たしか その時はもう丸高戦が始まったあたりまで単行本化されていた。
「とりあえず5巻までは我慢して読んでみてよ」と言われて手渡された『あひるの空』が翌日からの通勤のお供になった。
友達の言っていた5巻、”北住吉高校”が出てきて、やっと”九頭高”が試合らしい試合をするところだった。
彼の言っていたことがなんとなく分かった。そこから面白さが一気に加速し、自然と読み進めるスピードも速くなった。
借りていた17巻もすぐに消化し、続きが読みたすぎて新宿のブックファーストで買えるだけ買い足しては、帰りの中央線の電車で読みふけた。
いつしか連載に追いつき、週マガを読むことで単行本を追い越していった。
38巻発売後、ほんとにあそこで終わってしまったのではないかと思うくらいの長期休載があり、装いを新たに発売された待望の39巻で、この作品を追っていたら間違いと確信した。
そして、40巻の中にある1ページに「あひるの空と音楽。」という日向武史先生の言葉があって、”音楽と一緒にあひるを楽しむ”新しいマンガの読み方を教えてもらった。
ここから音楽の新規開拓も加速した。
***
周りを見渡すと、自分のためにステップアップしたり、仕事をめちゃくちゃ頑張ってイイお金もらってたり、新しいことにどんどんチャレンジしたりしてる。
僕はみんなとはちょっと違う道を選んだ。
すべては子どもたちの”今”のために。
僕の根底は今ココにある。
それでも、ちょっと周りを恨めしく思うことがあるのよ。
今ならもっとやれるんじゃないか。
今しかできないんじゃないか。
ほんとつい最近もそんなことを思って、迷った末に、結局やめた。
『あひるの空』で”深呼吸”をしたんだ。
これも、
これも、
これも、
これは痛かった↓
日向武史先生は『あひるの空』を通して、ひたすらに「迷うなよ」と言い続けている。そして、その孤独で勇敢な選択をしているのは“お前一人”ではないんだと。
彼ら、彼女らの言葉で、今日も僕は「いってきます」「ただいま」と”同じドア”をくぐれるんだ。
第一部(完)