刺激と幸福。ホラー映画とご飯。
突然だが、ホラー映画が好きだ。
「なにか」が潜む暗闇、突如背後に現れる影、暗く湿った不穏な空気感、そういったホラー映画特有のキリキリ胸を締め付けられるような恐怖がたまらない。観終わった後、どっと疲れながら、映画の中の登場人物たちの心の闇や、その悲劇を反芻していく。物語の中で恐ろしい体験をしてしまった登場人物たちの、その境遇に思いを馳せる。果たして自分はその立場になったら、どのような感情が湧き出るだろうか、どのような行動をするだろうか、そういったことを想像しながら、安心する。なぜならそれはあくまで「あちら側」の話だから。
映画を観ている最中は、「あちら側」に入り込んでいる。耳元で突然嗤う声、なにかが腐ったような饐えた匂い、視界の端に見え隠れするなにか。そんな映画の中の演出を、少なくとも観ている間はその場のものとして感じ取っている。だけどその感覚は、ボタン一つで、クリック一つで、いつでもOFFにしてしまえる。なんなら目と耳をふさぎながら見ることもできる。
そんな風に調整出来て、いつでも「こちら側」に戻ってこれる「便利な恐怖」、そんなものを僕はたまに摂取したくなる。ジャンクフードのように、アルコールのように。
昔から僕はそんな「便利な」刺激が好きだった。ジェットコースター、バンジージャンプ、スカイダイビング、クライミング、お化け屋敷.....五感への刺激を通じて得られる鮮やかで強烈な「生の実感」が好きだった。
「生きている実感」が足りなければ、そういった外部の刺激を欲するのだろうか?あるいは認知的な部分でそれが得られていないので、身体的、生理的な刺激でそれを代替しようとする行為なのか?
幼い頃は、夢中になって一つの事を追いかけていられた。何時間でも苦も無くそれをしていられた。無邪気に自分は、それをして生きていくんだと思っていた。それだけをしていられたらどんなに幸せかとも思っていた。心理的な状態としては、「フロー」に近い状態だったともいえると思う。でもそんな無邪気なイメージは、いつしか妥協や怠惰、他人の目という常に繰り返し寄せてくる波に削られ丸くなり、海岸に無数に落ちている角が取れたなんでもない石ころの一つとなっていた。
だけどやっぱり無意識の心の奥に、夢中になって一つの事を追いかけた、あの頃の心理状態が焼き付いていて、今でもそれを再現しようと脳が欲しているのだろう。それが今でも「便利な刺激」を求める理由だと思う。一度焼き付いた心理状態は、脳をその後も同様の状態を求めるように「配線」してしまう。そして無意識に焼き付いた「理想的な認知の状態」は、図らずも「それ以外の状態」を拒む枷にもなっていたのかもしれない。退屈や無為を居心地悪く感じてしまう自分の認知も、そんな枷の影響か、あるいは。
でも本当に、生きている実感は、「あの頃を取り戻す」ことでしか得られないのだろうか。僕は別に、そんな縛りプレイはしたくないし、そんな制約と誓約は要らん。僕はドMでもないし、ゴンのように「もうこれで終わってもいい」とも思っていない。刺激回路は刺激回路で置いといて、もっと日常で、もっと些細な場面でも生きている実感を感じられる、そんな感度が必要なの
ご飯がおいしいだけでも良いではないか。湯船につかれるだけでもよいではないか。ゆっくり寝られるだけでも良いではないか。のんびり日の光を浴びて散歩できるだけでもよいではないか。確かにそこには、鮮やかで強烈な「生の実感」はないかもしれない。でも代わりに、しみじみと染み渡るような「幸福」がそこにはあると思う。幸福の定義なんて語るつもりはないしそもそもそんなこと自分には語れないけど、飯がうまいと思えて、風呂が最高に気持ちよくて、寝るのも最高で、散歩も最高。そう感じられる感覚を、感性を、少なくとも僕は「幸福」と呼びたい。そんな些細な、なんの物語にもならない、誰にも見えない感覚は大切にしていたい。「こちら側」の世界を幸福に生きるために。