type:【サイバー-CYB-】バックストーリー
[1]
サイバーは命を蝕まれていた。
【心雲】という人の心の曇りを増幅させる神の悪戯に、今まさに苦しめられていた。
視界が眩み、呼吸の1つさえもおぼつかない。次第に歩く事さえ容易ではなくなる。少女は、額から吹き出る汗になど構う暇もなく、ただ前に進むことだけを考えていた。
息を荒く切らしながら、その暗き森にひかれた足元の悪い砂利道を歩いていく。
上空では、何の生物かもわからない黒き物体がけたましく声を上げながら舞っている。
誰かの死体を漁りに来たのか。
それとも、時期に命を失うであろうその少女の最後でもを見届けに来たのだろうか。
どちらにせよ、衰弱しきっていたサイバーはそいつらにとって格好の獲物である事には違いなかった。
構っている余裕などなかった。
きっと今歩く事を諦めたら、もう再び立ち上がる事は無いだろう。
きっと今生きる事を諦めたら、もう二度と生きる希望を見出す事は出来ないだろう。
だから少女は、その重りがかかったかのようにして歩く足を止める事は出来なかった。
「お母さん...お父さん...」
ここに来るまでに、何度この言葉を嘆いただろうか。
何度呟いたって戻りはしない。
事実が変わる事なんて決してない。
もう大好きだったあの頃は戻ってこない。
それでも時折呟いてしまうのだ。
「家族」との日々を、思い出しては嘆いていくのだ。
「っあ...」
砂利道に出来た小さな溝か、それともただ無造作に転がっていた木々の破片か。サイバーはいつもなら気に求めない小さくも大きな障害に躓いた。
「...っ」
もう何十分もこの辛く長い一本道を歩いてきた。
一歩一歩にかかる苦痛は計り知れなかった。だけどもその足を止めてはいけない事だけはわかっていた。
だが、サイバーはついにその足を止めた。
もう動かなかった。
体は愚か、指の先の末端まで。
「...行かなきゃ...」
土をかき分けるよう、指を動かす指令を脳に送る。無理だった。
小粒な砂さえ持ちあげる力も残されていない。そしてその程度の力も無いようだったら、もう一度自分の体を起こす事なんて不可能だった。
「いか...なくちゃ...」
辺りは、ぽつぽつと小雨が降り始めていた。
サイバーの涙か、それとも流れ落ちた汗なのか。何もかもが分からないまま、その雫は地面に落ちて消えた。
[2]
ぼんやりと蘇っていく記憶。
母から今日は紹介したい子がいる事を告げられ岐路に立った。
どうやら一人子供を引き取る事になったらしい。
名前も顔も知らないその子に不安を覚えながらも、新しい家族が出来る事に楽しみもある。
サイバーはその子を引き取りに、スラム寄りの孤児院にへと向かった家族の帰りを一人家で待ちわびていた。
だが、どれだけ経っても家族が家にへと帰る事は無かった。
サイバーは、部屋に置かれた写真立てに移る三人の家族の姿を見る。
「...もしかして暴れん坊な子なのかな...」
少しでも人手がいた方がいいか。
とにかく様子を見に、サイバーはスラム街方面「ブランドガイス」へと向かった。
街通りからは少し外れたスラム寄りの荒廃した街並みで、サイバーは両親からは立ち入ることを禁じられていた。多くの家族をや職を失った輩がはびこっている為、文字通りの危険さを醸し出している。
空気は、どこかどす黒く重い感じがしていた。
「...ええと...孤児院...孤児院...」
孤児院へ行くには確かこの道を行くはずだ。
壁に挟まれた圧迫された道に沿って、消えかけた街頭に時折目をやりながら進んでいく。
「...え」
危険だとはわかっていた。
だが、それはあまりにもその立証が根強く。確実性を増すものだった。
サイバーは目を疑った。
だが何度視界を遮っても見える世界は何も変わらなかった。
孤児院にへと続く道。
そこに忽然と現れたのは体を切り刻まれた何人もの死体が積み重なった、遺体の山だった。
もう誰のものかも分からない人間の手足が乱雑に絡み合い、化学オイルと流血にまみれた地面から、積み重なるように上へ上へと連なっていく。
その死体の山に添えるようにしておかれたある二人の姿。
「...ぁ...」
人間はここまで惨めで残酷な姿に変貌出来るのか。
見違えてしまえばよかった。見間違いなら幸せだった。
その二人は、そう思えるくらいには変わり果てた。
サイバーの、両親だった。
サイバーは体内の奥深くから込み上げてくる何かを必死に抑え込みながら、千鳥足でその二人の元にへと寄っていく。
赤。青。と貧血のようにちらつく視界にぼんやりと見えてくる二人の影。
父は、四肢の中で唯一残された右腕で、母の背中に手を回し、
母は、もう言葉に出来ないくらいの悲惨な姿で、元人間と呼ぶに相応しい有様になっていた。
サイバーはもう、何の言葉を発すればいいのかが分からなかった。
呆然と立ち尽くし、へたりと膝から崩れ落ちる。風に揺れ、消灯を繰り返す街頭の明かりは、サイバーの影とその死体の山を重ね合わせていた。
「...ああ...」
ふと死体の山と思っていたそこから、何者かの声が漏れていた。サイバーはその声の主をよく知っていた。
「...お父さん...?」
「リ...エ...」
「...お父さん!?生きているの!?」
人間からなされる虫の息とはまさにこのことだろう。
だけどその微小な音の振動は、確かにサイバーの耳に届いた。
父は口を動かしたが、目を開けることは無かった。だが親がもう何年も寄り添ってきたその声の主を間違うはずもなく、暫しの静寂の後、父は小さく微笑んだ。
「お父さん...!しっかりして...今、お医者さんを呼ぶから!!」
サイバーがそう必死に呼びかけるが、か細く笑うだけで何も返答がない。
「だめ...やだ!死んじゃ嫌だ!!」
まるで駄々をこねるようにして泣きじゃくるサイバーとは対照的に、父はずっと、そんな子供を見守るようにして、優しく微笑んでいた。
「どうして...なんでこんなことに!!」
必死に2人を抱きしめていたサイバーの体は、父と母の流血で真っ赤に染まっていた。
[3]
「無様なものだな...命というものは」
空を禍々しく取り巻くようにして突如低く響き渡ったその声に、サイバーは体をぴくりと揺らした。
誰かが、背中にいる。
「だ...だれ...」
直感的に感じた。本能からから生み出された「恐怖」という二文字。
その謎の声は、そんなサイバーの感情とはお構い無しにその質問に律儀に答える。
「我が名は【poisonmad・hydra】。毒を操りし、絶望を赦す神...」
毒...神...。
訳が分からなかった。だが、その言葉の真意を確かめようにも体が硬直して言うことが効かない。デバフのスロウを受けたかのような。または、毒の蓄積ダメージを受けているかのような。後ろを向こうにも、本能がそれを拒んでいる。
人間の足音にしては重々しく、生生しい。そんな音が響く。
「まだ息をしている者がいるか...あれだけの残虐だったのにも関わらず本当に人間というものは生存本能だけは確かに強く持つようだ...」
べとり。と、何かの液体が落ちる音も聞こえた。
「人間の命も、砂時計が刻々と下に落ちていく原理も、姿形は違えど辿る道は同じで等しく下らない...。実につまらんものだ。本当に、運命に抗えぬ力無き者というものは...」
心臓を直接鷲掴みにされ、体の身体機能を掌握されたかのような息苦しさを感じていた。
息を飲むのが一苦労で、体が金縛りにあっているかのように動かない。蛇に睨まれているとは、こういうことなのだろう。
「お前の両親は、我が新しく目覚めさせた新たなTYPEによって殺された。
光栄に思うがいい。力を証明する為の尊い犠牲だ。きっと奴らも地獄で喜んでいる事だろう」
「...とうといぎせい...?じごく...?」
「恨む事は出来ぬだろう?」
瞬きしている事さえ忘れるくらいの恐怖が体をまとわりついて離れない。
一歩一歩。着実に何者かがサイバーの後ろにへと迫っている事が直感で分かっていた。
「我は生きるかどうかの選択を奴らに与えた。まずはTYPEが抱えている体の異変を感じさせるための猶予を与え、それからそのTYPEに抗う為の時間さえも与えた。だが、」
だが。
「その絶好の機会さえも奴らは無駄にし、落としいられたと神を冒涜しながら、最後は己の無力さを呪い力尽きた。
奴らは不条理でも理不尽でもなく、ただ失って当然の物を当然の刹那で失った。ただ、それだけの事だ」
サイバーは両親を見つめながら、汗と血で滲む手の平をきゅっと握った。
「貴様は...そうではないのか?」
蛇の舌が肌を舐めるような。
不気味な禍々しさがまとわりつく。見られていないのに、すぐそこで何者かに見られている。いないはずなのに、そこにいる。
体のもつ感覚全てで、その何かの視線を痛々しく感じている。
「人間は実に愚かだが等しく利用価値がある。そう、神を信仰し己の生きる力として崇め奉る。ただそれだけでいい。それだけで、人間は存在する価値があるのだ。
心雲で無差別に人間を従わせ、信仰を膨大化し率いる事をすれば、我は自ずと神々の頂点に立つ事さえ容易になろう。だが...」
じわりと流れていた生ぬるい風に乗せられ、のど元に細い何かがこつんと当たった。
「我は力なき者は...嫌いだ」
思い当たるだけの負の感情が一挙にして湧き出てくる。
サイバーは悟った。
この謎の何者かに、自分は関わってはいけないと。今すぐここを離れるべきだと。これ以上、奴の話を聞いていては危険だと。
「逃げろ...」
「さて...」
父の声とその謎の声が重なる。
「やつが侵されているのは心雲という神からの人間への冒涜だ。
人間の心から暗闇を立ち込めていき、最後は己の憎悪と嫌悪にまみれてこの世から消えていく。そういった神からの贈物だ。
だがその怪我だ。何もしなくても直に奴は命は落とすだろうが」
首元にかけられた固く細い何かは、つーっと首元を這っていく。
「もしも...貴様が仮に、我を消し去る程の力を持っているとしたら、奴から心雲は解かれ、医者の治療によって命を取り留められる可能性くらいは見えてこよう。最悪でも、心雲によって苦しめる事無く最期を向かわせられるかもしれん。さあ...」
サイバーの耳元に、こそばゆく温かい息を感じた。
「逃げて奴を殺すか...我を殺すかだ」
[3]
父は、まだ生きている。
いきなり戦えだなんて、得体も知れない正体の敵に背けるそんな力が、自分にある筈もない。父から小さな息はある...。
医者だ。今は父を助ける事が先決だ。
「お...お医者さんを...呼んでくる...」
そう何とかして呟くと、
サイバーは錆びついたような体をなんとか奮い起こし、体を翻した。
「...!!!!」
そして見てしまった。その声の正体を。
「そうか...やはり貴様も...」
毒々しく禍々しい。その声の主は、傷だらけの毒の龍だった。
不器用に畳まれたその翼はボロボロに引き裂かれ、深緑を基調にした鱗は闇に漏れてくる光に照らされ、オイルのように七色に光っている。
骨が体の随所からはみ出しており、ポタポタと体に刻まれた傷から毒らしい液体が漏れ出している。
「狂気」というのに相応しいその龍の姿は、自分の知っているただの龍などではなく、この世ならざる何かが姿形を借りてなんとか現存している。
そんな解釈をするのが正しいと思える程だった。
poisonmad・hydraは怪しげに口許を引き上げた。
「ほう...我の姿を見て声を上げなかったのは貴様で二人目だ...。恐怖で声すらも出ないというのが正解かもしれないがな...」
ギタリと不気味な歯茎と、鋭い牙を見せつけた。サイバーは小刻みに体を震わせながら、ようやく言葉を発した。
「こ...怖くありません...」
サイバーの予想外の言葉に、ポイズンヒドラは首を傾げる。
手を重ねながら、震える体と声を抑え込んでなんとかして叫ぶ。
「わ...私では、貴方には太刀打ち出来ません!だから、父を救うのは私であっても、貴方を倒すのは私ではありません...!誰かが...必ず貴方を粛清してくれる!」
ポイズンヒドラはその言葉を聞き入れ、暫しの沈黙の後に高らかに笑いだした。
「くははははは!...そうか、逃げ腰のつまらんやつだと思ったが面白い。気に入ったぞ...力の器としては十分。貴様は...我の力の礎にしてやろう...。どうなるかは...貴様次第だがなっ!!!!」
その瞬間。空間を切り裂くかのような裂破の様なものが、サイバーの体を貫いた。
「かっは!!!」
今までに味わった事の無い痛みだった。痛みを表わす例えが思いつかない。この世で味わえる痛みの中でも最大級ともいえるその痛みに、サイバーはその場で屈みこみながら苦しんでいた。
「...な...なにを...」
「ふふ...感じるか?心雲の流れを」
鼓動が...早い。脈打つ度に体を引き裂くかのような痛みが体中を巡っていく。じゅわじゅわと体が沸騰してかのような感覚を、その身で感じていた。
「...はあ...はあ...」
熱い。体中が。
「なあに。どうせ殺すなら貴様の心の雲行きを見届けてやろうと思ってな..。大したことはない。これから貴様はこの死に損ないを救う為に町はずれの医者を尋ねに行くのだろう?
本当にこやつを信愛し、守るだけの力があるというのなら、この一本道を構わず前に進める筈だ。例え貴様が...」
ポイズン・ヒドラの次放つ言葉は、サイバーの痛みをより深くさせた。
「その道を一歩進むたびに、己の命が削られようとな」
「...!?」
「助かりたいのなら...貴様がその力を受け入れる事だ...受け入れ、目覚め、我の為にその力を振るう...ネビュラとなって...な」
「...ま、待って!!」
辺りは閑散としていた。
というより始めから何もなかったかのように、そこに龍などは存在していなかったかのように。そこにいた痕跡が無くなっていた。
それでも...。
砂煙一つ立ち込めず、それでも幻想かのようにして消え去ったその主の顔を。サイバーは薄れる意識の中で、はっきりと覚えていた。
[4]
「....はあ...はあ...」
もう息をするだけで精いっぱいだった。
制御出来ない己の痛覚に屈し、ただ情けなく涙をボロボロと流すのが精いっぱいだった。
何かに縋ろうともここは街はずれの森の道。
普段誰かが通る筈もなく、誰かが助けてくれる事もない。
「...いかな...く...ちゃ...」
さっきまで冷え切っていた地面の温度が、温かく感じる。
「いかないと...」
自分を奮い立たせようと口に出してみるが、体は言うことをきかない。
前に進まなければならない。例えどれだけ苦しい思いをしようとも、父を救うには、この修羅の道を通り抜けなければならない。
「お...とう...さん...おかあ...さん...」
いつもは返される優しい声も、ただ木々がこすれ合う不気味な物音のみが返すだけで、そこに温もりも優しさも無かった。
「...あれ...」
もしかしたら、何か大事な事を勘違いしていたのだろうか。
その温かさも、温もりも。何もかも。
実は本当は偽物で、偽りの日常で、この道を歩き続けてきた自分の可哀そうな妄想の世界だけ話だったのかもしれない。
ありもしない日常を作り出して、なんとか生きる為の鼓舞していただけなのだろうか。
自分に父も母も存在していなくて。
本当は歩く事自体、何の意味も持たないのではないだろうか。
「死んでも...なにも...」
負の感情が数珠繋ぎになって連なっていく。一つ考えれば次に来る言葉も当然絶望的なものばかりで、その無意味な自問自答は常に暗闇の中のキャッチボールで行われる。
あまりの苦しさと辛さにサイバーは分からなくなっていた。
生きて、いいのだろうか。
もしかして、生きていては駄目なのではないだろうか。
そもそも生きていて、この先に何が待っているのだろうか。
もう、死んだ方が―
世界が、クラく、そまっていく。
ナニもかもが、クラく―
「リエラ...」
暗く光の一筋も差し込まない。
そんな暗闇のどこかで、誰かがサイバーの名前を呼んでいた。
[5]
「ただの風邪...ですね。大丈夫。すぐに良くなりますから」
白衣を着た白髪のメガネをかけた男は、そっと苦しそうに息をしている赤子の頭を撫でる。大事そうに抱えている母は、心配そうな眼差しで医者に問いかける。
「本当ですか...?でもこの子...昨日からずっと息切れしてて、それにずっと苦しそうにしてて...ただの風邪なんかじゃないと思うんです!」
「...そう...ですね」
「そうですねって...。お願いします!どうかこの子を...!」
一瞬辺りが白く染まる。
何かが光ったのだろうか。一瞬眩い光が見えた錯覚に陥った赤子の母は辺りを見渡す。
だが、辺りは変わらずチープな明かりだけで照らされており、薄暗い部屋には皆無のようなその眩さは、先程の光は気のせいだと感じさせた。
「...ほら」
「...え?」
男の目線に誘導され、抱えていた赤子に目線を落とす。
赤子は先程までの息苦しさが嘘かのようにして安らかに寝息を立てている。触った様子、熱も幾分引いている様だ。
男はそっと微笑むと、ハンカチで赤子の汗をぬぐってやった。
「明日にはすっかり元気になられてますよ」
その後、町外れの医者であるその男は、笑顔で子連れの親子を見送る。
母は大事そうに息子を抱きかかえながら、そっと、男に頭を下げた。
「...」
通り過ぎた風が髪をかき分ける。邪魔そうにかけていたメガネをそっと外すと、白衣の胸ポケットにしまい込んだ。
男の青く透き通った目が、より鮮明に映し出される。
靡く髪を逆らうようにして、横を振り向くと、風に乗せるようにして呟いた。
「...この世ならざる神の悪戯...今のは病気などではなく...」
赤子を撫でた右手をじっと見つめながら、静かに先程の光景を思い出す。
「ヴィトラ...其方まさか...」
その瞬間、続く言葉をかき消すかのようにしてはっと顔を上げる。
先程の親子が帰っていった村へ続く道ではない。もう一方の大きな街に出る方の道から、何かの物音がしたからだ。
「...なんだ...?」
眼を凝らし、暗闇にへと伸びている道に心眼する。
何もない平坦な一本道に見えた黒い影。
「!?」
そこに見えたのは、少女が苦しそうに倒れこんでいる姿だった。
[5]
白髪の男が急いで駆けつけると、そこにはもう生きているのも不思議なくらいに肌が変色した、体の一部が黒い何かで侵されている少女の姿があった。
その少女の白い肌とは対照的な、どす黒い雷雲のような色合いが肌の半分程度を侵食し、少女が必死に息をするのに合わせてその雲は蠢いていた。
「...大丈夫ですか!?しっかりしなさい!!」
うつ伏せの少女を抱え上げ、顔を上げさせた。
少女は苦しそうに息を漏らし、その呼吸をする為の口を動かすだけで精一杯のようだった。
「一体何が...!どうされたのですか!」
「...おと...さん...」
「お父さん...?父に何かされたのですか!?」
少女の目が開く事は無い。
言葉を発するだけでも相当な気力を使っているようだ。
「おとう...んを...たす......」
「...!父に何かあったのですね!!...しかし、その前に貴方を...!」
男の袖を、細い何かが掴んだ。
「お願い...私の...かぞ...」
く...と発音をはっきりとさせぬまま、少女の息が静かに止まる。
「...しっかりしなさい!」
このままではこの少女の命が危うかった。
ここから病院にへと連れ込むどころか、今すぐにでも何か処置をしなければならなかった。だが...一体何故この少女はこのような事になったのだろうか。何もわからない。分からなければ手の下しようがない。
この少女を救う手立ては...何か...。
白髪の男の脳裏に過ったのは、先程の親子の姿だった。
赤子に纏わりつく禍々しい黒いオーラ。
それは決してこの世のものではなく、だが確かにこの世のものである力。
神が造りし、神の悪戯。
「...まさか...」
嫌な予感が的中するのを感じた。
あの赤子は何かの病気になどかかっていなかった。
普通の医者があの赤子を見ればただの風邪だと言い渡し、原因は突き止められないまま、やがてその子は死に至っていただろう。
存在するが、存在を認めれない。
そこにあるがそこにない。
神が持つ力には、神の力でしか抗えない。
この力なく倒れこんでいた少女には、その面影が強く残っている。
「...そうか...やはり...やはり其方が...!!」
白衣の男は目を引きつらせながら、白衣の中からペンダントを取り出すと、それを力強く引きちぎった。
その瞬間、みるみるして白衣の男は姿形を変えていく。
白い毛並みに透き通った蒼眼。
天から授かったのかと思わしき美しい白翼は、広がるのと同時に大地に風を起こした。
―白龍
美しさをそのまま体現したかのようなその姿は、先程の闇を纏った神とは打って変わり、まるで光をそのまま表わしたかのような、そんな姿だった。
「...ヴィトラ...!!!!其方!!さては禁忌を犯すというのか!!!!」
白龍は雄たけびを上げる。
その声はその子の主を中心に円を描き、天を泳ぐ雲をかき分けた。
地響きに近いその揺れは、街の者達にへと伝わっていく。
だが、彼らに不思議と不安や恐怖は無かった。
ただただまっすぐに心を突き抜けていき、その光は皆の心の闇を晴らし、照らしていく。
サイバーにも、その光は届いていた。
「...」
目を開くと、そこには先程の龍とは違う、白く、煌めいた、輝かしい龍がいた。
何かに怒りを向けているらしい。
何かに対して必死に思いを伝えようとしているらしい。
何かを心から憎んでいるらしい。
だけど―
「あたた...かい...」
その怒りは、きっと誰かを守る為のものなのだろう。
その思いは、伝えるべくして伝えられるものなのだろう。
その憎しみは、きっと誰かの明日を変えていくのだろう。
サイバーは、そっと光に手を伸ばした。
「...私にも...誰かを守れる力が...あれば...」
倒れこんだ後もサイバーは起き上がり、必死に歩き続けた。
もう亡き母の為に。もう息を引き取った父の為に。
サイバーは分かっていたのだ。
もう、どれだけ歩いたとしても手遅れだと言うことを。
もうどれだけ歩こうと、あの頃の日常はもう戻らないという事も。
それでも。
「私が...歩いたって...」
少しでも―
「何も...なかったとしても...」
どこかのちょっとした未来が―変わるのなら。
[6]
眩い光の中で目が覚めた。
鳥のさえずりと、風が木々の隙間を抜けていく音が小さく聞こえる。
体は重かったが、それでも上体を起こすことはできた。
「...」
辺りを見渡すと、そこは薄汚れた病院のようだった。
白い毛布を掛けられ、服は清潔な白い服に着せ替えられている。
ふと手を見ると、その甲の一部は黒ずんでいて、まるで肌に雲が流れていくかのように静かに動いてた。
「なあに。貴様の心の雲行きを見届けてやろうと思ってな..」
毒の神と称したこの世ならざる存在によって、サイバーの体に異変が起こっている事だけは察していた。だが果たして何が起きているのか...何が起きたのかは、何一つ分かっていなかった。
「...目が覚めましたか?」
揺れる布地のパーテーションの奥から、扉が開く音が聞こえた。
はっとなり、その声の主を見る。
白髪の青い目をした長身の男が、サイバーの方を心配そうに見ている。その格好から、この病院の医者なのだろうと察した。
サイバーはこくりと首を縦に振ると、その男に問いた。
「あの...父は...」
男は顔には出さずとも、あからさまに反応を示した。
その...から続く言葉が無いのを察すると、サイバーの目から自然と涙が溢れていた。その様子を見て男は悔しそうに言葉を続けた。
「...私が駆け付けた時には...残念ながらもう...お二人は息を引き取っていました...。相当な重体です。おそらく、もう貴方がその場所を離れた時には既に...」
「...そう...ですか...」
やはり。何もかも無意味だったのだ。
あの歩いてきた道は、ただサイバーを苦しめていただけで。
それに。大切な父に、無駄な希望を与えていただけで。
何も意味を為さない行動だったのだろう。
「すみません...私の力が及ばず...」
白衣の男は拳を強く握った。そして悔しそうに、唇を噛みしめていた。
その光景にサイバーは動揺し、慌てて問いかけた。
「ど...どうして謝られるのですか...。もう手遅れだったんですから...どうしようもないでしょう?」
「...しかし...」
その様子から、どうやら白髪の男には何か心残りがあるようだ。
医者は決して霊媒師などではない。死者の声に耳を傾けられるわけでもなく、ネクロマンサーのように死者を蘇らせることだって叶わない。
サイバーは、その純粋無垢な優しさを振るう白衣の男の言葉に、少なからずの違和感を覚えていた。
「...お二人...?」.
あの時の無残で惨たらしい光景が蘇る。
思い出したくもないが思い出さずにはいられない。おそらく一生脳裏にこびりいていくであろう。黒き過去を。サイバーは思い返していた。
おかしい。何かが...。
「でも、貴方の両親は...」
「あの...」
「はい...?」
聞くべきかそっとしておくべきか。
だがサイバーは、こみ上げる疑問を、男に投げかけずにはいられなかった。
「何故...私の親が分かったんですか?」
[7]
男は訝し気にサイバーを見つめるのと同時に、その言葉の真意を理解する。
「何故って...それは勿論...」
白衣の男は何かの言葉をかけようとした後に、そっと口を紡いだ。
先程までの鳥のさえずりが、遠のいていくのを感じた。
サイバーは自身の疑問を補足するようにして言葉をつけ足していく。
「あそこには...沢山のお方が亡くなられていました...。そこに私の父もいましたが、だけど...貴方には誰が私の両親かなんて...分からないではないですか」
「それは...貴方にそっくりなお二人がいたものですから...その方がご両親かと...」
「それに...」
それに―。
「私...母がそこにいたとは、一度も口にしていません...」
男はただ動かなかった。動かず、何かを考えこんでいるのか。それとも考える事をやめたのか。ただただサイバーの凛々しい姿を見つめ、その場に立ち尽くしていた。
サイバーもその無言に何かを感じ取ったのか、静かに目を伏せ、男の返答を待ち続ける。
「あそこで見かけたご遺体は...貴方のご両親だけでした」
サイバーは一言返事で動揺を表わす。
「...え?」
忘れもしないあの光景。
積まれた死体の山々に添えられた両親の姿。
あれだけの夥しい量の死体がいながら、遺体はサイバーの両親だけだったという。納得が出来ない顔つきのサイバーを横目に、男は言葉を足していく。
「私が駆け付けた時にはもう...すでにご遺体は貴方のご両親だけでした...。心雲に侵されていた他の者達はきっと...先に毒になって、この世から体を抹消されたのでしょう...」
「しんうん...」
あの毒の神が放った言葉の中に紛れた言葉。心雲-。
「一種の...その、病気のようなものです...貴方も...その被害者のお一人であり...末期患者です...」
サイバーはそっと袖をまくり、肌を流れる暗雲を見つめた。
不思議と心持は穏やかだった。もういくつもの恐怖を痛切に感じたからだろうか。慣れてきたとでもいうのだろうか。
当人が思っている以上に冷静に、男の残酷な言葉を聞き入れていく。
「じゃあ...私は...その心雲という病気で死ぬのですか?その方達と同じように、毒になって...」
「そんなことはさせません。...私が必ず貴方をお守りします」
「...無理じゃないですかっ...!」
サイバーは口調を荒げた。
「どんなに頑張ったって...駄目だったじゃないですか...!」
「...!」
サイバーの悲痛な叫びは、白髪の男には重く、そんな少女の心を救う言葉を見つけるのは...難しいものだった。
「...貴方の苦しみを完全に理解する事が出来ません。けれども...」
「すみません...暫く...一人にして頂けませんか...」
白衣の男は、無言で小さく首を振ると、踵を返して扉にへと向かっていった。
「暫く...歩く事は出来ないと思います...まずは身体を休めて、それからゆっくりと今後についてお話していきましょう...」
サイバーの反応は無かった。
一人になったその病室で、ぽつりと言葉を呟く。
「...お父さん...お母さん...」
ここまで歩いてきたあの道すがらも、そう言って前に進んできた。
「ごめんなさい...」
サイバーは深く心の中で後悔していた。
あの時、私に力があれば。
勝ち目がないとわかっていたとしても、逃げずに、戦うことさえ出来ていれば。ただただ失うだけではなく、何か小さな未来が変わったのだろうか。
私は―父を守ることが出来たのだろうか。
力が、あれば。
チカラー。
「あれ...」
奇妙な感覚があった。生まれて感じたことの無い、感じる事無く失われていく自我を補填していく何か別のものが、体中を巡っていた。
『...だ...れ?』
「」
『誰か...いるの?』
「...リ」
繰り返される自問自答は、例え口にしなくても自分の心の中で完結される。
「貴方...誰...?」
これはただの確認行為だ。話さなくても、心の中で思っていればそれでいい。
サイバーは理解した。
―私の知らない誰かが、心にいる。
[8]
白衣の男は揺れる明かりの下で考え込んでいた。もう既に心雲の症状としては末期とも言えるサイバーの事。そして、その現況とも言えるpoisonmad・hydraのことを。
塵のかかった眼鏡を吹いて、そっとかけた。
嫌なものは見ない性分だった。あの過去を境に、男は戦う事をやめ、全てを投げ出し逃げ出した。
全ては愛しき者を償う為に。全ては、己の過ちを清算するために。
だが奴が動いたとなればそうもいかない。
大好きな民の為にも、己が力を振るい、己の力で守らなくてはならなかった。
これまで身を潜めてきた代償が、こうして人々に降りかかっている。
「...」
ふと気配を感じ、椅子を回して後ろを振り向く。
気がついたらそこには、病室で休んでいたはずのサイバーの姿があった。
「...大丈夫なのですか?体は...」
髪を下にだらりとさげ、その隙間から見えていた目はどこか虚ろだ。何かをぼそぼそと話しているかのように口を小さく動かす。そして―
不気味に、笑った。
「...貴方...何故...」
「...あはは」
白髪の男は察した。この少女の身に、よからぬ事態が起きている事を。
ガタリと椅子から立ち上がり、少し距離を取る。そうだ。おかしい。この少女は―
「何故...歩けるのですか...?」
サイバーはひたひたと床を歩く。体の半数は心雲に侵され、その少女の繊細な足も例外ではない。普通なら、もう立ち上がる事さえ困難な筈だ。もしかしたら二度とその足で大地に降り立つことだって不可能なのかもしれない。だけどこの少女は、あたかも当然かのようにして、その場に立っている。
「何故って...受け入れたから...」
心雲に侵されたサイバーの片目は、どす黒く淀んでいた。だが、その瞳の奥には何か別の意思が住み着いているかのように、決意に溢れていた。
「私馬鹿だった...こんなに近くにあったのに...なんで気が付かなかったんだろ。運命を覆すくらいの強大な力...私の...私だけの力...」
「...待ちなさい...貴方...まさか!!」
一歩距離を詰めようとしたその男の頬には、鏡を見なければ気づかないくらいの小さな切り傷が出来ていた。
「っ...これは...」
身の危険を感じ、詰めていた距離を身を引いてまた戻す。サイバーは得意げに不敵な笑みを浮かべてみせる。
全てを理解した。想定外というより、考える事さえ放棄していた
サイバーは毒の神より授かりし力を受け入れ、そして従えたのだ。本来は毒に侵されこの世から記憶以外の存在を抹消されていくはずだった...。そんな運命を辿っていく心雲の犠牲者だが、サイバーは違った。
神の力をその器で飲み込み、覚醒した。
「...TYPE...ネビュラ...」
サイバーは毒の神より宿された、TYPE:【ネビュラ-nbl-】に目覚めていた。