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終わる日記(2024/10/04)

2024/10/04

昨日と同じで、今日も雨の日だった。

午前中に授業を受ける。スライドがとんでもないスピードでぺらぺら捲られていく。

超伝導という物理現象は、物質の電気抵抗がある温度で突然ゼロになるという劇的なもので、理論的、応用的の両面から世界中で広く研究されており、いわば、物性物理学の花形である。と思う。

物性物理学は、文字通り、物質の性質を調べる学問である。電子というのは、いうまでもなく素粒子のひとつだが、それが物質中にたくさん閉じ込められると多様な物理が発現する。そして物性物理学が扱う物質の種々の性質は、固体中の電子の集団が示すさまざまな性質からきている。

あらためて電子は、よく知られているように、質量m = 9.1094×10^-31 kg、電荷e = -1.602×10^-19 C、スピン ±1/2 の素粒子である。そして固体中では、例えば金属では、角砂糖1個ぶんくらいの体積中に、アボガドロ数程度の、すなわち10^23個程度の電子が閉じ込められている。先のようなきわめて単純な属性によって特徴づけられた電子であるが、これが固体中でたくさん集まるとおもしろい物理が発現する。繰り返しになるが、いま、質量や電荷、エネルギー、運動量、スピンといった電子の属性は完全にわかっている。さらには、いろいろな効果を考慮することで、物質をあらわすハミルトニアンを記述することができる。単純に考えると、電子の属性とその相互作用と運動法則がわかっていれば、多数の粒子のふるまいを解き明かすのは単なる応用問題のように思える。しかしながら、粒子の属性と粒子間の相互作用が理解されていたとしても、粒子が多数集まった物質中では、ところがどっこい、そう簡単にはいかない。単なる応用問題などでは決してない。どういうことだろうか。

実は、驚くべきことに、固体中の電子の集団が示す性質は、個々の電子からの単純な予想とはまったく異なるのである。さらに言えば、物質中においては、単一の電子とは質的に異なる新しい法則やふるまいがみられる。それは基本的なものでは金属、半導体、絶縁体などの違いに現れるし、あるいは磁石のような磁気的な性質、さらには超伝導などの相転移現象に至っており非常に多彩である。マクロな物質の示すこのような多彩な相転移は、元をたどってみると物質中の電子に起因するものであるわけだが、それがたくさん集まった多体系では質的にまったく新しい、非自明で豊かな現象が発現するのである。ここにこそ、物性物理学のおもしろさがある。物性物理学の本質は多体系にこそ宿る。

研究室で同期に会うと長袖デビューしていて、先取りだねと言うと寒そうと思って着てきたら家のクーラーが寒いだけだったと言った。机に置いて経過観察していたどんぐりがようやく変化してきたようにみえるので、そろそろ潰れてくださいと念じて無言の圧力をかけてみる。ぴくりともしないので指ではさんで文字通りの圧力をかけると、先のほうがぺしゃりとへしゃげて黒ずんだ中身がまいりましたと言うように顔を出した。同期がひと口食べて、おお、エグ味がと言う。ティッシュペーパーを手渡すと、そんなにやわではないと言った。食べてみるとたしかに痺れるような渋い感じがあり、吐くほどではないが、好きこのんで食べるものではないと思った。僕の記憶が正しければ、幼い頃に森で食べたどんぐりはもっとおいしかったはずだ。食べられるどんぐりと検索すると、とあるブログがヒットして、食べられないどんぐりはない、と書いてある。むろん、どんぐりはタンニンやサポニンなどのアクが強く渋みがあり、ほとんどがそのままでは食べられないという。けれども、クリを除くと、スダジイ、ツブラジイなどはそのまま食用にできるらしく、炒って軽く塩をまぶすだけでおいしく食べられるらしい。ほかのものについても、アクさえ取り除けば食べることができるといい、その方法とおいしい食べ方の例としてどんぐりクッキーの作り方が紹介されている。どんぐりとのアクなき戦い、とのこと。

待兼山に行こうと言った。この大学にいると、鰐だとか祭だとかでなにかとマチカネマチカネと耳にすることがあるが、ここの学生になってから長いこと経っているというのに、自分を含めだれひとりとして待兼山には行ったことがなかった。坂にでてから左手に折れる。長い階段を登ると枝道があり選択を迫られて、多岐亡羊と立ち尽くしていたら、GPSがまともに機能していないんじゃないかとGoogleマップを手に同期が言った。見たことはないけれど、借りぐらしのアリエッティみたいだと思った。自転車に乗ったおじさんがこんにちはと隣を通り過ぎていった。

苔と落ち葉にまみれた遊歩道を手探りで進んでいくと、この先30m行き止まりと書いてある。それでもかまわず進んでいくと、2本の大木が道を通せんぼするかっこうで続けざまに倒れているところに行きあたる。テンプルランみたいだと言った。ひとつめの大木は飛び越えて、もうひとつはスライディングでくぐり抜けなくてはならない。同期が遊歩道に沿って山なりに配置されたコインを指でなぞる。踵を返して元の枝道へと戻り、再び多岐亡羊としていたらさっきの自転車のおじさんとすれ違うので待兼山の山頂はどこですか、三角点があるところですと言うと、遠くのほうの山を指しながらあそこだと言う。指し示す方向には背の高い草がふぁさふぁさ生い茂った山が広がっていて、僕らはまたも選択を迫られる。わけいっていくのか、あるいは諦めて引き返すのか。むろん、先導者が歩いていった痕跡はない。びしょびしょになるだろうけど平気かとおじさんが言うと、なるほど行こうと同期が言った。

道なき道を進む。背の高い笹と蜘蛛の巣をかきわけていく。雨のせいで足元はかなりぬかるんでいるらしい。注意して。足をとられないように、顔を切りつけられないように。かき分けていく。道なき道を。同期がファーストペンギンとして、僕がセカンドペンギンとして。

そうして僕らは山頂に到達する。笹に囲まれた平地になっていて、奥のほうに大きな木が立っている。その木の根元に、待兼山 77Mと書いてある。涼しい。が、けっこう疲れているらしい。靴と靴下のあいだに笹の葉が刺さっている。右に目を移すと、約束通り三角点が立っている。そこへ腰掛けて、深く、ゆっくりとため息をつく。

三角点刺さった笹を口にするパンダはこれを消化している

後ろを振り返ると、笹がなぎ倒されている。見下ろすと、光が指している。笹が、赤切れみたいにパックリと割れている。なにもなかった笹の茂みをかきわけてここまできた。いまやもう、なにもないのではなく道がある。山の、光の通り道。僕らは道をつくったのだ。僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる、というのはあれは高村光太郎だったか。

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