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終わる日記(2024/11/05)

2024/11/05

寝るとき、最近は暖房をつけて寝ていた。昨日、それを消して寝てみたのだが、暖房はまだ早いというのが相場だと聞いて、それに従って消したのだが、朝、凍えるような寒さで目を覚ました。暖房は埃っぽくてクリーニングがいりそうで、いずれやらなくてはいけないが、まあよかったのかもしれない。ひとまずは今夜、スリーパーを着ることにして、そうか、毛布を出せばいいのか。いや、毛布を出したらスリーパーはいらないか。どっちか。そういえば長いことしゃっくりをしていない。

先立って大阪市立科学館に行って御堂筋を心斎橋まで歩いたと同期が言った。市立科学館に行ったことがあるかと問われた。道路に沿って並ぶ彫刻の話をした。日記を読んだのだろうか。かまをかけて? どうなのだろうか。読んでますか?

それで心斎橋の大丸とかあのあたりの一連のブランドショップとか、そういうことの大阪のすさまじさというか、そのあたりの大阪について思うことをあれこれ話した。心斎橋に着いてから踵を返して、御堂筋を往復して結局3万歩弱歩いたと言った。学園祭の関係で食堂が閉まっていて、探して歩き回っていたら開いていたのはカンシタだけだったたので入った。僕はカレーライスとわかさぎの南蛮漬けにして、同期は唐揚げラーメンとサーモンビビンバ丼をたのんだ。今日はどういうわけか食欲がなかったと同期が言うと、3万歩弱歩いたからだと別の同期が言った。

同期が阪急の歴史について、帰る道すがら、鉄道の建設のことと沿線の宅地開発についての話をした。

池田と梅田の間を歩いていた創業者の小林一三は、新鉄道路線の可能性をその牧歌的な風景のなかに見出した。梅田から北側の農村地帯を経由して箕面の紅葉や有馬の温泉を結ぶ路線、すなわちそれらの遊覧としての電車という計画に対し、利用者が集められないのではないかという消極的な声があったその当時、一三は、大阪市内の狭い住居の暮らしを鑑みたうえで、郊外に新たな住宅地を作ってその居住者を市内へと運ぶための鉄道というアイデアを打ち出したのだった。そのアイデアは当時としては珍しいものだった。そしてそれは、結果として、見事に成功を収め、さらにはその後の私鉄経営の基礎になったということだ。

さらに利用客を増やしたかった一三は、宝塚に屋内プールを作って行楽客による利用者数の増加を見込んだ。そのプールは、しかし、屋内にもかかわらず冷水だったためにあまり人気が出なかった。それは室内のプールには温水を入れるという屋内プールの常識を一三が知らなかったせいだということらしかったわけだが、ともかく屋内プール事業はそれで失敗に終わった。それから一三は、次の手として、それを芝居小屋として再生させた。驚くべきことに、プールの浴槽と見物席を客席に、脱衣所を舞台に仕立て上げて芝居小屋としたのだ。そしてそれが後の宝塚歌劇団へと繋がっていく、ということだった。

帰ってきつねうどんとわかめうどんを作って、昨日買った早生ふじを切って食べた。切ると中身が部分的に傷んでいて、1/4くらいは捨てなくてはならなかった。食パンをグリルで焼いて、はちみつとバターを塗って、朝ごはんみたいな晩ごはんを食べた。

布団に入って風呂と歯磨きは明日にするとして今日はもう寝ようと思って、パジャマにだけは着替えることにした。と思ったら、ズボンは履いていて、上だけ着て、スリーパーを出して布団に戻る。疲れていた。今度こそ寝ようと目を閉じたら、それでもう眠った気がして、歯磨きだけはしようと布団をはぐった。野菜炒めが置きっぱになっていることに気づいてラップをかけて、冷蔵庫に入れたら元気がでてきて、そのままシャワーに行って、朝の出がらしのさんぴん茶を入れて、モロゾフのチョコレートを食べて、歯磨きをして寝た。毛布は出さなかった。

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