伝えていく人はどこに。
これからのために、多くの人が見て共感して多くの人に伝えて欲しい。
私は子供の頃に広島にある広島平和記念資料館に行ったことがあります。家族旅行で大阪と広島を訪れ、その際に資料館に行きました。その当時は旅行なのに、わざわざなんでそんなところに連れて行かれたのか、と不満に感じていました。
当時の印象を思い出すと、"怖かった"が大きいです。爛れた蝋人形、止まった時計、当時の映像。薄暗く、黄色がかった照明がその恐怖を煽っていたと思います。家族には怖がっている姿を見られたくないので、怖くないというようにずんずんと前に進んで行ったのを覚えています。子供ながらに"センソウ"というものを肌で感じていたのではないでしょうか。
当時を振り返って父はこう言います。
「"ヒロシマ"に行ったのは、なんでもいいから感じて欲しかったからだ。」
「どうせ、何もわからないと思う。戦争を一から説明しても理解できないだろう。 でも、子供のあの頃に見せないといけないものあると思ったんだ。資料館に行けば"何か"は感じるだろう。 そこからは"何を"考えるのもお前らの自由だ。」
父は子供の私たちに伝える義務を行い、考える権利を与えてくれたのだと思います。
話は変わりますが、私は震災に携わる学生団体に入っています。そのこともあるし、事実としての震災には前々から非常に興味を持っていました。 2011年3月11日、私は札幌に住んでいて、中学生でした。体育館で卒業式の練習をしていたのを覚えています。かなり揺れたのは覚えているし、なんとなく大人たちの緊張感が伝わってきたのも覚えています。 その2年後(これも父の意向で)被災地を見て回りました。津波で全てが流されて、本当にここでの暮らしがあったのかさえ想像がつかないほどでかなりのショックを受けました。 このような経験もあって、現在の団体に所属しています。
その団体の関係で、昨年福島を訪れました。そこにあったのは、資料館の恐怖感でした。福島の主要道路として6号線を通ったのですが、Jヴィレッジ(サッカーのトレーニングセンター)を越えてから、電光掲示板に放射線量を表示しており、その先には大きく帰宅困難区域の文字、銀色の台に乗った警備員(この人たちは放射線が怖くないのだろうかと思っていた)、バリケードと放置され荒廃したガソリンスタンドやコンビニ。ゴーストタウンはSF映画かゲームの中にしか存在しないと思っていました。当時は写真をとることすら恐怖でできませんでした。
しかし、先日ある記事をみて福島に写真を取りに行こうと思いました。
被災地に咲く桜、以前から知っていましたが強く心が動かされたので行くことになりました。
順調に福島に入り、Jヴィレッジを越えて行くと、何か雰囲気が昨年と違っていて。すぐに気がつきました。帰宅困難区域が小さくなり、多くのバリケードはなくなり、そこにびっちりとくっついていた警備員もいなくなっていたのです。人が入り始めたからなのか、今までの恐怖感は薄れていました。つまり、(こう言っていいのかはわかりませんが、復興に近ずいていたわけです。) 「ああ、変わったな。少しずつ復興しているんだ」と思うわけです。 しかし、同時にこんな感情も湧いてきました。
「あの恐怖感はどこへ行ってしまったんだろう。」 「あの肌で感じることのできる危機感はどこへ行ってしまったのだろう。」
そう。あの恐怖感、あの危機感は復興と共になくなって行くのです。反比例しているわけです。それが普通で、当たり前なのです。
将来、これらの事実を伝えていけるのは私たちだけで、それは架空のもの(伝えられる側は事実のものは変遷したものしか見れないので)なのです。
このことに気が付いた時、 「もっと多くの人に今の事実を見て欲しい。」 と、感じました。 ここで最初にお話しした父の言葉が蘇ります。
「なんでもいいから感じて欲しい。考えるのはあなたの自由です。」
これは私から記事を見た方への言葉です。そしてこの記事を読んでくださった方はできればバリケードの残っているうちに帰宅困難区域の現実を見て欲しいです。そして、誰でもいいから同じように伝えて欲しいです。
「なんでもいいから感じて欲しい。考えるのは君たちの自由だ。」
こうして少しでも事実を伝えて行く伝播ができればいいなと思っています。被災されたところは福島だけではないですし、それこそ、そこから色々考えてくれるのは大歓迎です。
小さな伝播が大きな伝播になって、多くの方が現実を目の当たりにしてくれれば、次のステップです。記事を読んでいただいているあなたのお子さんは大きくなりました。7,8才というところでしょうか。その時に、震災について話して見てください。実際に被災地を見せてあげるのもいいでしょう。そして最後に付け加えます。
「なんでもいいから感じて欲しい。考えるのは君の自由だ。」
夜ノ森の桜