ジョナス・メカスのある暮らし
ジョナス・メカスの映画はアンビエントだ。本人が言うように、特に何も起きない。
リトアニアで詩人として活動していたメカスは、ナチスに追われて亡命してきたニューヨークで16mmのフィルムカメラ、Bolexを手に入れた。1950年代から実験映画のキュレーションを始め、アメリカ実験映画界のゴッドファーザーと呼ばれた彼の作品『リトアニアへの旅の追憶』や『ウォールデン』には、故郷リトアニアの田舎の風景や、ニューヨークの街並み、友人たち、それから自分の姿が映っている。
言ってしまえばただそれだけなのに、メカスの映画には味がある。これも本人が言うように、見なくてもいいんだけど、そこにあってほしいと思ってしまう。フィクションではなく、ドキュメンタリーともまた違う。個人の日記のような映画なんだ。
その魅力は何だろう。たぶん、ありのままなんだろうな。メカスが見たそのままのイメージを見せてもらってる。その眼差しに味がある。ただ美しい季節の変化とか、友人とのパーティー、旅先で一人で食事している姿にも。今で言うVlogみたいなことを、何十年も前に彼はBolexでやっていた。そのイメージが詩的で、自然体で、心地いいんだな。
人生と同じように、映画もただ流れていく。永遠には存在しない日常をただ捉える。「見なくたっていい。しかし見るべきだと思ったら、座って映像を見つめればいい」そう言うメカスの懐はきっと海のように大きくて深い。座らなくても気にしないけど、座ったらきっと歓迎してくれる。
とある上映会の後のトークイベントで、メカスが好きで実際にニューヨークまで会いに行ったという映像作家の方がいた。確か、どこで会えるかわからなかったけど偶然に道端で会ったと言っていた。そこで「あなたに会いに来ました」と言うと、「メカスは誰の心の中にもいるよ。もちろん君の中にもね」と言ったそうだ。ジョナス・メカスは2019年1月23日にニューヨークの自宅で亡くなったけれど、それを聞いていたから私は全く寂しくならなかった。だって本人がそう言ったっていうから。『ウォールデン』でアコーディオンを弾きながら、"I am searching nothing, I am happy〜" と歌っていた人。90歳を過ぎてもトランペットを吹く動画を自分のサイトに上げていた人。わざわざ会いに行かなくても、心の中でいつでも手を振ってくれそうだ。
そんなメカスの作品の、理想の楽しみ方ってどんなものだろうと考えてみた。
映画館でも美術館でもなく、つまりあまり長居できない空間ではなく居心地のよい場所で、大きめの白い壁にプロジェクターで投影されていて、音はあってもいいけど出来ればサイレントになっていて、例えばそれがカフェなら、客はコーヒーを飲みながら何時間でもそれを眺めていても、眺めていなくてもよくて、その空間に描かれた動く壁画のような、または無音の詩みたいな感じ。メカスを環境の一部にしてしまう。私にとってはそれが理想だ。そういう扱いをしても、というよりむしろした方が、メカスは喜ぶんじゃないかと思う。
同じ楽しみ方は、きっと家でもできる。昼下がりにプロジェクターにスイッチを入れる(理想はね)。壁に映像が映ってからコーヒーを淹れるくらいでちょうどいい。その間はきっと時間が穏やかにゆったり流れるだろう。そしてふと気づいたら、あっという間に夕陽の暖かさを感じる時間になっているかもしれない。
ゆっくり過ごしたいお休みの日に。メカスのある暮らしはいかがでしょうか。
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