日記2024/10/30
改めて自分を起動させるか。
怒りや憎しみにも半分以上を支配されたら危険だが、何%かは精神の支えになるらしい。精神のスパイスのようなものだ。今日は買い物日和ということで、買い物に勤しもうか。これは必要な事柄だし、あとはずっと出そうと思っていた不用物の出品を行うか。家にあるディスプレイもできないだろうか。出来そうな気配はある。
あとゲームか。今それらを終わらせる予感はない。どうしてだろう。ストレスを感じていないからだろうか。それもあるかもしれない。ストレスによって欲は決まってくるのだろうか。もしかしたら、正しいかもしれない。
昨日は……。旅行やどこか新しい場所に行くのも正解かもしれない。ああ、そうだな。家に引きこもっているより遥かに大切か。確か公園があったらしいから、そこまで運動がてら出掛けてみるか。珍しく今日は自転車を使って出掛けてみようか。
公園がどこかにあったらしい。近場の公園や観光スポットを調べてみるのも悪くない。
ハナマサに無印にか。色々と行きたい場所もある。公園にでも行ってみるか。しかし自転車は本当に気をつけないとならない。自転車で普段の人はどう移動しているのだろうか。わからないが、本当に便利かも疑問だな。自転車で速度を出したら危険とも思うし、机の上もやはり汚いかもな。もう少しどけた方がいい気もしてきた。威圧感はない方がいい。机の上にはものを置かない方がいいかもしれない。食事はどうしよう。昨日の予定通り、焼きそばか。焼きそばと肉と野菜で生活できそうだ。
生活習慣をより朝方にしたいと思っている。
自分の未来の予想通りの自分にして行動を開始したい。どうしたら生活習慣を変更してより活動的になれるか。もっと鬱になる事かもしれない。確かに最近は気楽すぎるな。
あとグラブルの時間も確保できるか。とりあえず一つずつこなしていくか。全てをこなす事は不可能だ。しかしそれらをやる事はできる。ただ、要するに自分はやる事柄の予定を立てることをサボりがちという話と思われる。今を全力でやる今やる感覚とか他を犠牲にする感覚が大きすぎて、本気で何事かを積極的に計画することから逃げているときがある。それは即ち過去に遺恨があるときだ。過失が記憶の背景に認められるとき、そこから目を逸らそうとしてしまう。あるいはとても人間らしく、人間の精神としてはありがちな回避欲求かもしれない。しかしながら逃げるだけではいけないだろう。
日記や活動用のアカウントをどこかで発生させたい。心はまたノートは誰も読まないのだろうか。意味のある内容をどう発揮するか。どう発散させるか。最近はそんな内容をどうもこうも考えていなかった。昔いいだけ文章を書きたかった時期にやはり外側に文章を公開してでも、どうにか文章を書いて生活を立てる方策を考える方が適切だったのだ。全くもって外側に文章を提出するや公開するなんて事柄を考えていなかった。他人に文章を公開することを最も忌み嫌っていたといっても過言ではない。
誰かが誰かを否定するとか。そういう話でもなく、そういう意味でもなく、何か仕事として適切で意味あるものとして、自分が誇りをもってできる事柄がほしい。それにしても最近はどうも脳の調子がよくもなく悪くもない。これはやはり体力や筋力に起因しているかもしれない。新しい事柄をやるのに、古いタスクを認識できなくなりつつある。今一度タスクに本腰を入れて取り組むためには、古いタスクを新しく入れ替える必要性があるだろう。それは一体どのようにして実現するかの実行論、つまり古い水を入れ替えて新しい水を入れる作用、部屋の澱んだ空気に新しい空気を入れる換気、冷蔵庫で水を入れて保管している野菜に毎日水を入れ替えて新鮮さを保つ生活の知恵————、そんな要素を感じている。
一つの事柄に必ず事実のみではなく、例え話を入れる事は面白い試みかもしれない。学者が学術的な話をするだけではなく、譬え話を用いるような、あるいは、就活中も結局は事実のみを伝える意味はなくよいエピソードを用意する方が大切なような話だ。
相変わらず何度も日記を書いているようで、日記ではないというか、漫然とした記録になりがちだと思う。特に今日はなんとなく頭が痛い。このような状態だからむしろ日記をかけていいるか。違うと思うが……。
日記を書く事柄に拘りすぎて、内容を持って記すという意味が薄れつつある。
普段からどう感じたかの物事はあるのだが、全てを知っている事柄に収めようとしていないか。新しい何かを発見しようと自らで乗り出していないような、既存の自分を否定していないからこそ、外に出て新しい概念を探す必要もなく、卵の殻を破って行動する機会を逸しているような、そんな不確かな空虚感が蔓延している。
大きな精神的な変化がないのか。確かに技術に拘りすぎると精神的な物事の成長は薄くなりつつある。何か素晴らしい意味や、世界に対して穿った意味を提供できると思っていた、あの発見と好奇心のようなものが薄れている。それは一つの可能性であり、新たな景色の発見であり、身近な景色の再構築であり、心の奥底に澱んだ沼の底にある鉱山の発掘である。その先には様々な希少鉱物と、宝石が土に塗れて眠っている。
見るものを意識した不埒な文章というが、果たして現代においてどの程度それらの非観測的な主義主張が通るだろうか。既に自我にしても自意識にしても相互監視のSNS上に投稿することは当然になりつつある。即ち意識的な演技をした文章——の前提にある前意識つまり建前としての社会的な心に支配された時間が現代人の大半を占めると推測できる。日常的に誰かにあるいは自らに対して演技をすることが当たり前になりつつある時代。あるいは飾ることなく自分を発信しても、相対的に飾りすら演出に喩えられる時代かもしれない。心を誰かに晒すことに意味はなく、ただ本心は相対的なプラットフォームの中でさらに並べられる商品であり、そこに観測者は時間という対価を払って観測・影響している。その時点で人々の意識は、商品であり価値でありデータという単純な事物に近く扱われる。全てが商品であると共に、元の原材料は自らの心と時間であるなら、人々のエゴや思想に溢れた現代のネット空間の文字・記号たちは、時間と評価の儀式関係で結ばれるエネルギーと力の駆動装置なのかもしれない——などと誇大的な解釈をする思索もたまには良いか。
厄介な自意識の処理ばかりに奔走する現代と自分自身——。己の意思のありようはどこにあるのだろう。また自意識の目的はどのようになるのだろう。もっと先へ進むにはどうしたらいいのだろう。今の自分にできる事柄は確かにあるものの、それは自分にとって最も求めている事柄だろうか。あらゆる事柄が渦を巻いている。テンションを上げたい一方で、テンションを下げて冷静に見極めたい一方もある。北極で南極のテレビを見ながら、暖房がわりの火を囲んで、皆でかき氷を食べているような、益体もない矛盾と欺瞞で自らを騙しながら人生を享受しているか。あるいは狭い自室の中で、華やかな人生や宇宙旅行や異世界旅行を楽しむ行為と、それらはどう違うのだろう。人々の幻想と思想の最中で、犠牲にされている事柄は自らの精神なのか肉体なのかすらも今や怪しくなり、地球の内部には緑の鉱石に満ちた層が広がってコアを覆っていると、ふと思い出して今日の日記はおしまいとする。