皇帝様は絵師を褒めて伸ばしたい#004「邪悪な幼女のとめどないデザイアー」
――何かを忘れている気がする。
食事をしていても、娯楽に興じていても、子に臥し寅に起きていても、心にポカンと穴が開いているような気持ちになり、不意に何処か物寂しくなる。
――何かをやらなければいけない気がする。
変わらない日常、変わらない毎日。何も問題なく過ごせているが、「本当にこのままで良いのか」そう自分に問い掛けられる。
私がまだ若かった頃、いわゆる思春期と呼ばれていた頃は、何も理由がないのに心が落ち着かなかったことがあった。それに似ていて、漠然とした不安感を覚える。
自覚は全くないが日々の疲れが蓄積されて心が病んでいるだろうか、それならばリフレッシュするために何処かへ出掛けよう。
全身で自然を浴びる森林浴をするもよし、高原へ赴き爽やかな風に包まれるのもよし、地平線に沈む太陽を眺めて情緒的になるのもよし。
何処に行くにせよ、普段着ている装飾に凝った衣服では動きづらいので、倉庫に保管してある軽装を取り出すために地下室に降りることにした。もちろん、執事に頼めば全てを用意してくれるが、気分転換も兼ねて自分の足を延ばした。
そういえば、屋敷の地下に行くのは久しぶりだ。以前までは足繫く通っていた記憶があるのだが、何故、私は倉庫と牢獄しかない地下に訪れていたのかを覚えていない。どうしてだろうと記憶の糸を手繰り寄せていると、1枚の紙が隙間風に運ばれてゆらゆらと私の足元に落ちた。それを手に取った刹那、私は大切なことを思い出した。
あ、スィンゴだ。
そうだ、スィンゴに絵画の依頼をしていてそのまま放置していた。完全に失念していた。私がうっかりしていても、きっと執事は彼のことを覚えているので三食しっかり与えているだろう。
そんな楽観的な気持ちで小部屋を覗いていると、中には痩せ細ったスィンゴがぐったりしていた。どうやら、執事も忘れていたようだ。まぁ、済んでしまったことを悔やんでも仕方がない。
さて、過去の私は何を描いて欲しいとスィンゴに依頼したのだろうかと疑問に思い、手に取った絵画をもう一度見てみる。
思い出した。私が発注した絵のお題を。すなわち、
「東京スカイツリーの購入を検討している、おでこの可愛いワガママ幼女」
である。
描かれている幼女は片目を瞑っておりウィンクしているように見えるが、不動明王のように火焔光背を背負っている。火炎光背は“怒り”を表しているので、それで愛らしいウィンクはおかしい。従って、彼女はウィンクをしているのではなく鶴林寺の摩虎羅大将(まこらたいしょう)像と同じように弓で狙いを定めていると考えるのが妥当。とても、攻撃的だ。
彼女がセール中の東京タワー、東京スカイツリーの前にいることから、どちらかの購入を考えているのが判る。両タワーの中央に顔がついているのは、萬福寺の羅睺羅(らごら)尊者像と同じように“心の中の仏”を表しているのだろう。そんな尊い存在を自らの手に収めようとする行為は“エゴ”そのもの。
彼女は如意輪観音の座法として有名な輪王座(りんのうざ)をとっているように思えるが、よく見てみると左右の足の裏を合わせていないので不完全。観音へのリスペクトはなく、ただ姿かたちを似せようとする行為は“虚栄心”。
背景には富士山、東京タワー、東京スカイツリー、牛久大仏、日本を代表する名所が全て描かれているが、これらを一望できる場所はこの世に存在しない。この背景は“全世界”を象徴しており、この世の全ての征服を企てる彼女の“独占欲”の強さを表現している。
怒り、攻撃的、エゴ、虚栄心、独占欲――彼女がワガママ幼女であるのは一目瞭然だ。
また、ワガママの限りを尽くしている様子が極端に強調されているので、この作品は“人間の業の深さ”も表現しているということが判る。きっと、スィンゴは欲深きこの現世を憂いているのだろう。荒々しい筆遣いからも、そのことがひしひしと伝わる。
作品を見ただけでテーマが判る、その表現力は流石スィンゴといったところだ。何を描いているのかが描いた本人しか判らない、そんな自慰的な作品を吐き出す有象無象の自称芸術家は少なくないが、彼らとスィンゴはレベルが違う。
スィンゴは人類の宝だ、そう再認識した。もし、スィンゴに危害を加える輩がいたら、私は全力で迎え撃とう。
文:カイザー烈
画:スィンゴ・ミカミン
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