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「他力本願」をわかりやすく解説します 2023年3月【6】
他力本願の本来の意味
「他力本願」という言葉は、しばしば論争を引き起こします。元々は仏教用語で「他力」は阿弥陀仏の力、「本願」は阿弥陀仏の願いのことです。
阿弥陀仏の願いとは「念仏したすべての者を極楽浄土に生まれ変わらせる(極楽往生させる)」というものです。したがって「他力本願」は「阿弥陀仏の力で極楽往生する」という意味になります。
一般的にこの用語は「他人まかせ」という意味で使われます。それで仏教者側と論争になるわけです。
ここで阿弥陀仏について説明しておきます。これは多種多様な仏のひとりです。極楽浄土にいて、私たちをそこに生まれ変わらせてくれる仏様ですね。
仏とは悟りを得た人のこと。釈迦が有名ですね。釈迦は実在の人物ですが、阿弥陀仏は宗教上の存在です。
阿弥陀信仰(浄土信仰・浄土教)においては、この世のすべてが阿弥陀仏の力(他力)によるものです。我々は自分の意思で行動しますが、この信仰においては、行動しようとする意欲も、行為も、結果も、すべて他力の結果と観ます。最初から最後まで他力に委ねているのです。
世間の一般的な考え方は「人事を尽くして天命を待つ」です。これは「自力で頑張って、その結果は他力に委ねる」と言い換えることができます。
阿弥陀信仰においては、そのように考えません。「念仏したら阿弥陀仏が救ってくれる」という教えではありますが、この信仰における念仏は、自分の意思でするものではありません。念仏しようとする意思をも阿弥陀仏が起こすと考えます。阿弥陀信仰における「他力」は、ここまで徹底しています。
すべては縁によって起こる
それでは何か悪いことをした時「これは私の意思ではない。阿弥陀仏の意思だ」と言えてしまうじゃないか。そう考える人もいることでしょう。これは法然や親鸞の時代から問題になっています。
この問いに対する答えは「イエス」なのです。有名な『歎異抄』において「本願ぼこり」として取り上げられています(第13章)。親鸞は「薬があるからと言って毒を好んではいけない」と答えています。
親鸞は唯円という弟子(この人が『歎異抄』の著者です)に「お前は私の言うことを信じるか」と尋ねます。唯円は「信じます。あなたに従います」と答えます。それに対して親鸞はなんと「では人を千人殺してこい」と命ずるのです。唯円は驚いて「できません」と返します。
親鸞は「これでわかるだろう。我々の行動はすべて縁によるのだ。何事も縁があるからできる、縁がなければできない」と語りました(原文では「業縁」)。
我々は自分の意志で行動しているようで、実はそうではないということです。この時代、この国、この親、この体に生まれ、こういう状況で生きている。これらが組み合わさって、私たちの行動は起こるのです。
これは仏教の基本的な考え方です。因縁生起(いんねんしょうき)と言います。因縁によって生まれ起こる。下記の記事がわかりやすいです。
この記事によると「因」は直接的な原因で「縁」は間接的な原因です。直接的な原因と間接的な原因が組み合わさって、物事は生じます。
たとえば両親は私が生まれた直接的な原因、生育環境は間接的な原因です。この因と縁が合わさって、現在の私という人間が形成されました(私という人間が生起しました)。
なお、わざと悪事を働いて「これは私の意思ではない。仏様の意思だ」などと言ったところで減刑されるわけではありません。法治国家の国民は、その国の法によって扱われます。
現代社会における宗教の存在意義
信仰は、この世を説明するためのものではありません。近代以前にはそういう役割を持っていましたが、今となっては丸ごと受け入れるものではないでしょう。
現代社会における宗教は、科学では手に余る領域を担うものと考えています。芸術の役割と重なる部分が多いです。
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