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国立西洋美術館と空想エッセイ《3》 2024年3月【4】
今回もまた、絵画を観て心に浮かんだことを書いていく。
【前回記事】
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ノースリーブを着た女性に、私は心を奪われる。あらわな肩と二の腕。腕を上げれば脇がのぞく。
脇という部位は常時見えているわけではない。腕の上げ下げによって見え隠れする。そこに私の心は惑わされる。彼女たちは日常的な動作をしているだけだというのに。
女性の左肩に茶色の線が見える。何だかブラジャーの紐みたいだ。拡大してみる。
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茶色の線は脇から始まり、弧を描いて背中に到達する。影だろうか。しかし普通、肩の上に影はできない。では服の端か。もしそうなら、袖が太すぎる。私にはこの茶色の線は不要に思える。
あと挙げたいのは素足であること。夏の暑さが伝わってくる。髪の毛をアップにしているのも、首筋が暑いからだろう。私は彼女の火照って汗ばんでベタついた肌を想像する。絵画の中の彼女から体温を感じる。魅力的な女性は、涼しい顔をしたお姫様ばかりではない。
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またしても若い女性のはだけた胸。西洋絵画には若い女性の乳房が多すぎる。目に入るたびに心奪われて仕事にならない。もっと言えば乳首だ。いつもそこに一点集中してしまう。そこだけしばらく凝視した後、ようやく顔に気付いた。いい目をしている。
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今度は男性器が気になる。私は常々、自分の男性器が邪魔で仕方がないと思っている。子孫を残す予定もないので、排泄器官でしかない。排泄するのにホース状である必要はない。
睾丸も同様。服を着る際に膨らんで格好悪いし、あらゆる動作の邪魔になっている。デリケートな器官であり、しばしば違和感に悩まされる。私はそれで幾度となく泌尿器科に足を運んでいる。取ってしまいたい。軽くなって楽だろう。
ただし睾丸は臓器だ。病気でもないのに切り取るなどとんでもない。本気で取ろうとは思っていない。
毎日毎日あまりにも邪魔なので、愚痴を言いたかっただけだ。そうでもしないとやっていられない。たった今も脚を組み直したら挟んでしまい、痛みで声を上げた。こういう痛みもしばらく続く。つくづく面倒くさい。
女性の胸の膨らみは美の一部だが、男性の股間の膨らみはお笑いのネタにしかならない。男性の象徴が滑稽ということは、男性という存在そのものが滑稽ということになるのではないか。悲しい。
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また私の心を惑わす存在。乳房、くびれ、膨らみのない股間。美術鑑賞は、己の性欲と向き合う行と言える。私は女人禁制という慣習がなぜ存在してきたかわかる。若い女性が目の前にいたら、それしか考えられなくなるからだ。
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乳房に目が行く。きれいな形の乳房だ。女性が光り輝いている。それはそうだろう。これだけ美しい乳房を持った女性なら光り輝いて当然だ。本当には光り輝いていなくても、見るものの心が投影されて光り輝いて見えるのだ。
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「これが真理だ」というのは、豊かな乳房が真理ということだろうか。よくわからないが、まったく異存はない。
私にとって、女性の乳房は性欲を掻き立てるものだ。しかし性欲が満たされた後でも、それが価値を失うことはない。信仰の対象といっていい。赤ん坊が乳を吸って生きることと関係がありそうだ。
母の乳房を吸っている間は、母とつながっている。しかしそこからは早々に切り離される。女性は自分の乳房を持つに至るが、男性はそうではない。失われた母との絆が恋しくて、いつまでも乳房を追い求めてしまうのではないだろうか。
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これはタイトルがいい。「美しかりし」は「美しかった」だ。老婆はかつて美しかった乙女なのだ。だから老婆はロマンチックな存在と言える。世の中の老婆を見る目が変わる。
この件について、ググってみたら興味深い指摘があった。
原題直訳では『オーミエールと呼ばれた美女』で、像の老婆にも敬意を感じる言い回しである。「若い=美」という単純さに異を唱えていたロダンが、老婆の姿に”今は美しくない”などと言うはずもない。そもそも美しさを感じていなければ、この像は造られなかったはずなのだから。その意味においても、単純に『オーミエールと呼ばれた美女』でいいのではないか。
「オーミエールと呼ばれた美女」と思って鑑賞すると、また違った感じを受ける。「シワシワの老婆じゃないか。どう見ても美女ではない。どういう意味なんだ」と思う。それでいいのだ。観る者ひとりひとりが、美について考えることになる。
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私は、異性と裸で抱き合う場面を想像すると悲しくなる。憧れの人の体と、魅力のない自分の体を比べてしまうのだ。
自分の体を消し去って、憧れの人の体だけが見えるという具合にできないものか。これについては、かつて読んだことがある。月の明かりを背にすればいいのだ。
満月の夜、石畳の街の、細長い塔の最上階。その街で一番高いところ。小さな窓から月の光が差し、運命の人だけが白く照らされるのだ。
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こうして私は、国立西洋美術館を後にした。2024年3月1日、午後8時。
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