歯痛による決意。
砕けてますね、奥歯。
虫歯が無くても、半年に一度は必ず検診で歯医者へ行き、その度に『綺麗に磨けてますね』『この調子なら死ぬまで自分の歯で食べる事ができますよ』などと称賛されていた私の歯。
フロスも毎日使い、1日3回、たっぷり時間をかけてケアしていた。それなのに、このところ奥歯が痛いのだ。
仕方なく歯医者に行くも『虫歯、無いですねぇ』と訝しげな表情の先生。とりあえずレントゲンを撮ってみた結果、奥歯が砕けているという。
下の歯と上の歯を左右にギリギリやってみろというので指示に従うと顎を掴まれた。
『ほら、これ見えます?貴方の奥歯削れて短くなってるから、噛み合わなくなってるんですよ。上下の歯が当たるのは糸切り歯だけになっちゃってる。貴方、日常的に歯を食いしばってません?』
思い当たる節がありすぎてハッとする。
その頃、社内の人事トラブルの対応に追われていた。パワハラ、セクハラ、社内不倫、メンタル不調の新入社員…。(どんなだ)
人事絡みの仕事、特にハラスメント系や不倫系は極秘案件が多く同僚と飲みに行っても何も吐き出せない。それに立場上、自分の意見も言えない。
例えば男性社員からのセクハラ被害の相談があって幹部(男性)が状況確認をする場合、女性社員を同席させる。その時求められるのは『敵でもなく、味方でもなく、ただただそこに居る人』である。
被害者の女が、ハの字眉で幹部に被害状況を訴えるのをただただ見ている。その女が社内で有名なすぐに股を開いちゃう系女子であった場合も、その女と加害者が不倫関係にあって、ただの恋愛関係のもつれであることを知っていても、私は絵画のごとくそこにいる。逆に本当に可哀想な被害者の場合にも、同情するのは心の中だけで私情は一切だせない。
『よく言うわ!お前がそそのかしたんだろ!』とか『はー?あなた給湯室で抱き合ってましたよね?』とか『おっさんも馬鹿だよなぁ』と、か心中穏やかじゃないどころか、荒波状態であっても顔面はモナリザである。
吐き出す事のないセリフを、全て奥歯で噛み殺していた訳だ。
かわいそうな私の奥歯。
だからって、明日から急に『このはげー!(古い)』と感情をむき出しにする訳にはいかないのがサラリーマン。我慢、我慢の毎日だ。
そもそも、私は言いたい事が言えないタチである。上記のような機密情報だけではなく、自分の考えやちょっとした気持ちも言葉に出せない。
例えば、同僚に既に知っている情報を知らされた時『もう知っている』という事実が言えない。「らしいね〜」とか「それ聞いた〜」と軽く返せばいいのは分かっているのだが『そうなんだー!』と咄嗟に嘘をついてしまう。
後輩が率先して手伝ってくれた仕事がチャランポランでも「ありがと〜」と言ってしまうし、めんどくさい仕事を押し付けられても「全然大丈夫です」と言ってしまう。
『良い人だと思われたい』という気持ちがあるのは認める。けれども、なんだかしっくりこない。『嫌われたくない』のも違う。
私が知らないと思って教えてくれたのに、私が知っていたら相手がかわいそうだから、知らないふりをする。私のためを思って手伝ってくれたのに、役に立ってないと知ったら後輩が報われないから、嘘をつく。
相手を傷つけたくない?
いや、私が傷つきたくないのだ。
人を傷つけることで、自分が被る疲労とか、フォローするためのコミュニケーションとか、全部めんどくさい。
自分の存在によって誰かが迷惑を被ったり、嫌な思いをする事があると、申し訳なくてたまらない。だから相手が望むストーリーに合わせて言葉を吐き出す。私を笑わせようとしているから、笑う。私に感謝してもらいたいから、ありがとうと言う。まるで、よく出来たAIだ。
こうしていれば、感情が揺さぶられる事はない。波風が立たず、互いに消耗することも無い。精神的にもとてもラク。
けれども、奥歯は砕けるのだ。
このままでは、ビールを飲みながら大好物の軟骨の唐揚げをゴリゴリ食べる事ができなくなるだろう。煎餅も厳しい。癒しのハーゲンダッツも痛みとの戦いだ。
平穏に暮らしたいけれど、奥歯とは死ぬまで一緒に頑張っていきたい。
だから私は変わろうと思う。
欲しいものは欲しいと伝え、嫌なことは嫌だと言う。相手が食べたいものじゃなくて、自分が食べたいものを食べに行く。彼氏が好きな服じゃなくて、自分が着たい服を着る。少しくらい誰かを傷つけたっていいじゃないか!人間だもの。