無趣味のすゝめ
無趣味人間さんの生態について
無趣味という言葉がある。
趣味がないという、そのままの意味である。最近はこの傾向を持つ人が増えている。……なんてのは嘘かホントか、しかし何にしたって、スマートフォンを含む多機能端末の普及によって、わざわざ先鋭化した趣味を新たに獲得する必要性がなくなったということは十二分にある。あるに決まっている。
思うに、何でもお手軽になりすぎたのだ。
写真を撮ること一つに絞ったって、日常のあれこれを漫然と撮るには、スマートフォンに常備されたカメラ程度で事足りる。事足りないと言う人もいるだろうけど、大抵の人はその差を深く意識することも無いだろう。シャッターを切れて、フラッシュが焚けて、ズームイン、アウトができる。それ以上を一般の消費者が求めるだろうか?
求めない。
いや、そこまで言い切るのは不作法だが、昨今はありとあらゆる物の敷居が低く設定され過ぎた上に、漫然と享受できるものが増えすぎた。
例えば、誰でも作家になれることを謳ったウェブ小説投稿サイトには、なろう系と呼ばれる平易な土台を前提にした作品が量産され(もっとも、これに関しては古くから似たようなことをやっていた節がある)、スマホの普及とともに隆盛を見せた動画投稿サイトでは、YouTubeショートやTikTokといった、短時間で生産消費できる動画が溢れんばかりに投稿されるようになった。ちなみに、このnoteってやつもそれと同じ部類ではあるから、これを書いたからって何かやった気にはならない方がいい。あくまで日記程度に使うのがいいのだ。
加えて、それと同時に、人々は何もかもが渦巻くインターネットという土俵で、頭角を現すことが求められるようになった。
無趣味人間さんの生態について2
しかし、良いことじゃあないか。
先鋭化せずとも人は沢山の趣味を得られたんです。何でもできる。人の才能には限界があるから到底万能とは言わないが、選択肢が多いのは良いことだ。そのはずだ。
だが、引用まではしないが選択肢が多いとかえって人は混乱するという研究結果があったりもするし、そもそも選ぶという行為には責任が付き纏い、同時に多大なる労力を消費する。選ぶことと違って、選ばないことは簡単なのだ。
そして、前述したように、現代の社会には高い敷居を無理に飛び越えずとも安易に享受できる娯楽がある。水は低きに、なんて言うように、わざわざ苦しい方へ流れる人間はそういない。もしそんな人間がいるとすれば、よっぽどのマゾヒストか、或いはその苦を楽と捉えることのできる人だろう。
そうやって、低きに流れた人間とそうでない人間は自然選別され、低きに流れた人の大抵は確固たる趣味を持つことも能わず、大人になって「あれ、俺は老後に何を楽しめばいいんだ」なんて嘆くような、なんとも惨めな人生を送ることになる。
とはいえ、何かしら惰性以外の選択によって趣味を持つことを選んだ人間が、必ずしも順風満帆に生きられるわけではない。
有象無象の中でもまだ真っ当に、何かをやろうという気概をもって踏み出せた人間に降りかかる試練がある。インターネットという大海である。
インターネットという大海
無趣味を慰めてくれるのかとこれを開いて、さんざぼこぼこにされてしまった君、或いは既出の意見に反駁したいどなたこなたも、まぁとりあえずまだ聞いてほしい。話はここからなのだ。
無趣味を作りたもうて、殺したもうたインターネットは同時に、趣味を持った人間も殺さずにはいられなかった。なんて言うと些か詩的だが、要はインターネットにおいて事前に行動を封じられているのは終わりのない娯楽に囚われている人間だけでないということである。
かつてのSFでは、ハイブマインドとか集合知とか、インターネットの発展における先駆けや予言のような概念が流行ったものだけど、実態としてのインターネットの状況はあまりよろしくない。よろしくないと言うと恣意的で作為的だが、その理由はいくつかある。
情報が過剰積載されていること
誰にでも情報を受け取れる土台があること
人間は皆同じでないこと
大雑把に言えばこの三つだ。当然ながらこの段階では若干曖昧とも取れる物言いをしているが、説明していこう。
一つ目。情報の過剰積載。インターネットは優れた情報保管庫のように見えて、その実、適した情報以上のものを過剰に流し込んでくる劇物でもある。これは、単に新しいものは危険だという原始的な排斥行為でなく(老人になると誰もが振り回すやつだ)、或いはネットは脳に悪いとかいう話を漫然と聞き入れた主張でもない。
つまり、インターネットというのは個人が扱うには情報としての量も質も膨大でかつ曖昧すぎるのだ。ネットワーク上には選別されない、或いはされても尚弾ききれなかった胡乱な情報が星の数ほど転がっていて、それを一つ一つ拾って情報の有用性を確認していくのが我々の脳である。そんなことを何時までも続けていては疲れてしまう。人間の肉体というのは我々当人が思っているほど頑丈でないのだ。(一度スマホをおいて一日くらい何もせずに散歩とか、ぼんやりする時間を作ってみると案外良い気分になったりするものだから、ゲームのログインボーナスとかSNSのトレンドばかり追っていることを自覚した人は試してみるといい。一日丸ごと使って、あくまで自覚的に寝るというのも悪くない)
二つ目。誰にでも平等に与えられた土台。いやはや昨今はスマホでもPCでも、何だっていいがインターネットに接続する手段がありふれている。例えば私は海外から日本のニュースを確認することだってできるし、逆も然りだ(余程の情報規制がなければの話にはなるが)。
つまり、誰でも同じ情報を瞬時に入手できるようになっている。その上、SNSではトレンドなどと銘打たれて流行りの話題が取り沙汰され、一体どんな話題が現在ホットなのかを簡単に伝えてくれる。
もちろん、それによって得られるメリットは大きい。例えば災害情報はいつだって得られるし、外国のニュースだって見ようと思えばいくらでも見られる(見られるだけで実際に見ている人はそれほど多くないだろうけど。ちなみに、こんな偉そうに言っておきながら私は見ていない)。
このように、情報の見本市であるところのインターネットは万人に分け隔てなくその門戸を開放しているが故に、それによって発生する問題もある。与えられる情報の均質化である。
我々というのは、ひどく貶めた言い方をすれば文明に家畜化された矮小な生物と断じて相違ない、
というか、人間はもっと自身が惨めで貧相で矮小な生き物であることを自覚した方がよっぽど楽に生きられると思うのだが、何故万物の霊長でありたがるのか。割と謎である。
一応「待った」をかける訳だが、何もこれは文明ただちに棄却して丸裸になって野を駆け回れとか言っている訳ではない。安心してほしい。既存の文明を放りだして無知を生業にしていた原初の人間に立ち帰る方が、文明に操られているより余程馬鹿である(なお、文明を捨てる行為を愚かと言っているのであって、決して原始人がどうだという話ではない。念の為)。
つまりは単に、さんざ夢見られた集合知を使いこなせない人間様は同じ情報を食わせられ続けると突出する余地を失い、平均の餌食、即ちつまらない奴になるという話である。出る杭は打たれるという諺があるけれど、現状の人間は杭の成長速度、方向性を均質化してしまったことによって、かえって突出する余地が狭まり、趣味をどう活かすかの生存競争が激化しているという訳だ。技巧を追求する趣味は、同様の技巧を持ち得る中でどう突出するかで喘ぎ、金をかけた趣味は札束での殴り合い。こんな状況だから趣味そのものを他人の成果に惑わされず如何に楽しむかが、楽天的に趣味を持ち続ける秘訣とも言える。まぁ、これができるならそもそも無趣味なんて名乗らないか。
三つ目。人間は皆同じではない。よほど完璧に均質化されていればこの点に関してはまだましと言えたけれど、人間の傾向が凝り固まりやすくなっただけで人というのはイコールで結ばれる存在ではない。つまり反発しあうこともある。
先ほど、出る杭は打たれるとかいう諺を出して、そもそもの杭の均質化、平均化についてまくしたてたが、当然ながら叩く方も存在する。インターネットには突出しようとした人間を叩いて潰してしまう人間も含まれているのだ。
悲しいかな。人間は、取り分け日本人は、異常なものを潰しにかかる生物である。日本はムラ社会的な集合体の形成や、鎖国時代含め他を排斥するような育ち方をしてきたせいかその風潮が強いが、何にせよ異端は弾かれる。そのため、集団よりは個の生き方などと謳う割には集団の同調圧力で若い芽を潰したりとか(まぁ、場合によっては若い芽にも非がかなりある)つまらない潰しあいが散見される。
その上、インターネットではなまじ話の通じない人間に発言権が与えられてしまう場合があって、極めて非生産的なやり取りが行われている現場に直面すると落涙や血涙が止まらないような気さえする。そこは概ね気の所為なのだが、兎に角、インターネットじゃ何の解決策にもならないやり取りを重ねた上で誰かが潰されたりする。こんな場所で突出していけなんて、誰だって御免被る話だろう。
趣味は身を滅ぼす……のか?
以上三つのインターネットにおける問題点を紹介した訳だが、このように、インターネット社会においてインターネットと末永く付き合っていくつもりなら、半端な趣味は持たない方がいい。そんなのは脳のリソースの無駄遣いだ。昨今ではやたらと「己自身の個性を持て」だの「一人ひとりがクリエイター」だの、誰にでも特別さを見出したがる風潮が目立つが、楽になれ少年少女、後ついでにお兄さんお姉さんおじさんおばさんお爺ちゃんお婆ちゃん。
中途半端に絵の趣味を持ってるやつよりは、「俺、休みを一日使って寝ることが趣味なんですよ」なんて言える方が余程潔い。一見すると、それは世間的に言う無趣味にあたるかもしれないが、半端に何かやろうとしてはまれなかったという方がよほど趣味らしい物もなくて惨めだ。
後者はどちらかと言えば、最初に言ったような無趣味の型で、所謂無趣味を自称する人は大半がこのタイプに属すると勝手に思っているのだけど、しかし、インターネットによって規定された趣味に馴染めなかったからこそ無趣味という消極的なあり方を望むのではなく、やりたい事が特段なかったりする中に新たに何かを見つけりゃいいじゃないかと私は言いたい。言わせろ。
そして、その見つけ方は強迫観念的なものでなく、運命的なものであったりすると尚いいと思うのだ。だから、自分を無趣味だと思っているやつは一度スマホなんて捨てるか(これはやり過ぎだ)、どこか取り出せない場所にしまって散歩でも行こう。或いは上司への鬱憤でも書道してみるとか、不貞寝してみよう。それも惰性によるものではなく、確固たる意志を持った不貞寝をすればいい。ぶっちゃけお前のスマホが何に必要で、この後ゲームにログインしなきゃいけなくて、とかつまらない強迫観念はどうだっていいが、一つ言ってしまえば、やっぱり現代人は身の丈に合わない機械に振り回されて、日常にさして必要でない区分をわざわざ導入して落ち込み、画面の向こうの誰かにアピールするための行動を取ったりと、実につまらない行動原理を抱えた人間が多いと思うのだ。
そしていざ、スマホという便利に時間を潰してくれる(というか、時間は潰すものではなく楽しむものだ)道具を取り上げられるとどうすることもできなくなる。
そんなものよりは余程、型にはまらない状態の自然な感情で辺りのものを見つめ直すと面白いと思うがね。そういう無趣味であれというのだよ。以上です。
最後に
自己紹介も何もしてないんですが、こう。なんか。最初に何書こうか考えないで適当に走り出したらこうなりました。もし感心した人がいたらすまないけど、以上の文章は大体適当です。似たような意見はあるがそこまで突き詰めた考え方はしてない。放った言葉の責任を放棄するってんじゃないが、程々に聞き流してもらって構わない。あと、今回は主には創る方、創作に携わるような趣味の話をしているので、札束で殴り合うやつの是非を問うてはいない。そもそも、半端な気持ちでなければ好き勝手創作すればいいとも思うのだし。問題はというと能動的でないまま趣味のようなものを受容して自分には趣味がないだの誇れる趣味が欲し(以下略)
まぁでも、雑味豊かな人間性くらいは伝わったと思うので、自己紹介代わりにどうぞ。今後はまぁ、適当に思ったことを誇張混じりで雑に書き連ねるのがメインになると思うが、それで構わないならよろしく。そしてこんな内容でありながら私はお前らをスマホに誘うから安心してくれ。
あと、私に限ってかもしれないが、スマホ封印した日はマジで何もかもが美しく見える。