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"当たり前"を疑っていきたい。「なんでここにいるの?」


JoEです。

このnoteは、一大学生が日々の自分の頭を片付けること・何をして生きている人間なのかを伝えることの訓練として、ミライにかけて少しずつ綴り重ねていく、稚拙な日記です。


4年間の大学でのあらゆるジャンルの講義を重ねてきて、ようやくわかってきたことがある。

それは、私たちの今の"当たり前"の生活は、歴史的に見ると、本当に最近のことだということ。

当たり前のように学校に行く。

当たり前のように会社に行って、仕事をして、給料をもらう。

当たり前のようにお金で食べ物を買う。

経済学は、人々の間のモノのやりとりが、金銭を介すことが前提になっている。

ちょっと前の時代まではごく"普通"だった物々交換・非貨幣的なやりとりなどは、経済学的にはほぼ無視される行為に等しい。

会社で働いて、お金をもらうということも、資本主義が蔓延した社会で独特に広まっていった特殊な文化だと言ってよい。

資本家に対して、労働力という生産要素を差し出して、その対価としてお金をもらう。

企業はなにがあっても結局は利潤を出すことが目的だから、労働力はそれを達成するための大事な要素とも言えるし、コストとも言える。


では、冷静に考えると、資本主義社会以前の人々の生活はどつだったのか?

もちろんどこかに勤めていた人もいただろうが、大半が今でいう自営業的な営みをして暮らしていたらしい。
百姓や、農耕をして生きていく暮らし。

ちょっと前までは自分たちで道具や食べ物を作ったり、あるいは自然からいただいたりして暮らすのが誰しも"当たり前"だったのだ。

だから、稼ごうが稼ぐまいがそれは個人の勝手だったのかもしれない。
むしろ、お金をかけないで生きる術をすでに身につけているのだから、稼ぎなんて足しになるくらいでよかったのかもしれないが…


それがわかってからというもの。

毎朝満員電車の中に揉まれているとき。
アルバイトと授業であっという間に過ぎ去った1日を終えてホッとした時。

ふとした時に、なんで私は今ここにいるんだろうか、と考えてしまう。

たくさんのお金と人が存在することが"当たり前"だという前提のもとで成り立っている私の生活。

お金が、人が、いなくなってしまったらどうなってしまうのだろうか。

"当たり前"を疑うこと。

それは今の生活と暮らしと社会が怖くなってしまうこと。
だけれども同時に、本当に大切なこと、自分が今やるべきことに徐々に気付いていくきっかけでもあるんだと思う。


地位も名誉も贅沢な暮らしも、身の丈以上のお金もいらない。

ただ、社会に頼らず、自分の力で生き抜いていく力を身につけたい。

自分の今からの将来へ向けての道筋は、こんな願望が原動力になっているのだと思う。

誰かは頼るけど、社会は頼りたくない。 


ご一読いただき、感謝致します。

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