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粗末すぎた日常。明日は我が身とおもえば。


JoEです。

このnoteは、一大学生が日々の自分の頭を片付けること・何を考えて生きている人間なのかを伝えることの訓練として、ミライにかけて少しずつ綴り重ねていく、稚拙な日記です。


昨日は、一日中何もなかったので、久々に家の中でゆっくりする一日を送った。

『グランメゾン東京』も見終わったことだし。
他になんか時間あるうちに見ておこうかなーっと思い、どうやら最近公開されたばかりの『さよならのつづき』をポチッ。

たまにはこんな感じのひそかに心動かされそうなものも、見るのは好きだ。

気付いたら、全エピソードを見終わってしまっていた。イッキ見。


案の定、見終わったあとには、心は少なからず動かされたように思う

内容は割愛するが、どんなに楽しい日常も、そうではない日常も、明日には終わってしまうかもしれないということを自分は忘れてしまっていたように思う。

忘れてしまっていたというか、気付かされたという感触に近い。

今日死ぬか、明日死ぬか、生き続けるか。
そんなことは、誰にも、自分にとっても知るよしのないことである。
ふいに災害が来て、交通事故に巻き込まれて、事件に巻き込まれて、死ぬかもしれないし、奇跡的に生き延びるかもしれない。

思えば、生と死は紙一重
一瞬で自分の現生に別れを告げることだって、十分ありえると思うのだ。

と考えると、自分の日常はなんと傲慢で粗雑なものになってしまっているか。
明日が、今日このあとの時間が、いつも通りやってくることが当たり前だと無意識に認めている。
でも、当たり前のことは当然、当たり前じゃない。

今日もつまらない一日だったな。
何かに追われて一日がすぐに終わってしまったな。
あの人のこうゆうところが腹立たしくてたまらない。

とか、考えている暇はどうやらないのかもしれない。
ないかもしれないとは少し言い過ぎかもしれないが。今を生きれているからこそ、そんな悩みを持つことができているのかもしれないからね。

でも、生きれているからこそ、もっともっと大切に一日一日を送っていく権利と自由は私たちは持っているはずである。
それは、明日、はたまた今日さえも生きたかったのに生き延びることができなかった人たちに対する必然の義務ともいえるかもしれない。
そして、私を生んで育ててくれた親と家族に対しての責任も。

2年前に、高校の時から親友だった同級生が若くして亡くなった。
彼は偉大な夢を目指して大学に入ったが、夢を砕くようにコロナと病気に遮られてしまった。
そして、夢叶わず、私が面会に行った翌日に彼は旅立って逝った。
高校時代の思い出と彼の夢と自分の夢とを語り合ったこと。私が地元でお店を開いたら1番先に食べに行きたいと、最後の最後の力を振り絞って言ってくれたことは、忘れることはない。
かならず叶えるから。

人間というのはすぐ忘れる生き物だけど、あらゆる人に対しての責任・義務・自由・感謝を背負っていることは忘れてはならないことだと思う。

それは、明日は我が身と胸に誓い、一日一日を丁寧に送ること。
今日も生かされたことに、ありがとう。

これは、もっとも忘れがちで、もっとも忘れてはならないことだと、じっくりと考えつめた一日であった。

一日に感謝して生きる喜びをありありと表現できている人は、生命感にあふれて、周りの人を集めたり、誰かを勇気づけ、元気にすることができる力を持っている。

丁寧に、謙虚に、感謝して、前へ進んでいこう。


ご一読いただき、感謝致します。





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