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行くあてのなかったはずの言葉を拾い、書き集める
言葉にしなければ無かったことと同じ、誰も知らないまま行くあてもなく途方に暮れていた思いたちを集めて書く
昨日投稿した映画鑑賞のことを書いているとき、自分の高ぶる感情が溢れてくるので夢中になって書き進めていた
私をよく知る人ほど、映画を観てこのような感想を持ち、その赤裸々な気持ちをどこかに書いているなんて思いもよらないであろう
読み返せば読み返すほどに、感じたそのままを熱の冷めないうちになるべく拾い集めて書いているので、何とも私らしいと思えてくる
現実世界の、顔を合わせて話す知人らを前に言葉にして外に放つ類いのものではないとも思う
会社に行けば少人数ながら会話もするし、趣味の関係で様々な年齢の様々な職業の方と交流する機会もある
頭に浮かんだ言葉を外に放つと言う当たり前とも思う行為を繰り返し、その場・相手に相応しいであろう形に多少の補正をしながら、コミュニケーションを取る
ただ、そんな時、目の前の相手のみならずその場にいる人の顔色を見てしまう嫌なくせがあり、楽しそうな場でも常に表情やその変化を見てしまう
嫌なくせとは思いながら、若い頃からその場その場で持たれる印象や年齢(相手の思う)も全然違っている事が面白かったし、それ故に同志を見つけたり悪いことばかりでもない
が、対面になると変に顔色をうかがってしまって、たくさん話しているようで核の部分をぼやかしたり、本音を言っているようで心を固く閉ざし、本当に言いたい事が何だったのかわからなくなるときもある
見つめるだけで、手をつなぐだけで、肌が触れるその感覚だけで、耳に届いた声だけで通じ合えたら良いけれど、誰彼かまわずやってみるわけにはいかない
なので口頭であれ、手話であれ、筆談であれ、形を持った言葉を交わすという行為の持つ関わりの可能性を広げたり深めたりする役割の大きさを思えばあれこれ考えずもう少し、いついかなる時でも素直な言葉を口にするようになりたいと切に願う
いや、なろ
私は一人暮らしだし、会社を出ると誰かと話をするという習慣がない
限られた友人や趣味の関係はたまにあれども、親・兄弟と電話で話したりメッセージをやりとりする事もない
そうなると、何かを見聞きして思ったことや感じたことと言うのは、ただ私の中で『思った』『感じた』、はい、おしまい
特に正直な気持ちほど外には出さないままになってしまう
出さずに大切に育て温めたもの、それはそれで良いけれど、初期衝動とか直感とかそういった新鮮さはすぐに無くなったり、形を変えたり、変えられたり、汚れたり、汚されたりしてしまう
熟成された納豆も美味しいけれど、青々としていながら短期間のお楽しみの瑞々しい枝豆は尊い存在なのだ
何のこっちゃ
自分以外の人に話したり、メッセージを送ったり、もしくは日記やなんかに書き留めておかないと無かったことと同じになるようなもの
無かったことにはしたくない
顔も知らないどこかの誰かに向けて、または誰にともなく『思った』り、『感じた』りした、行き所なんて無かったはずの思いや言葉を拾い集めては書き留める
無限に湧き出してはとめどなく広がっていく名前のない、言いようのない、それらを言葉や文章という形にして書き留める
何だか言葉にすると違っていたり、どんぴしゃな表現がなくて(知らなくて)もどかしかったり、その事ばかりが頭から離れない時もある
ただただ楽しいだけではないのに、もう書くこともない気がするのに、書いちゃう
そして、伝えたかった思いや気持ちを言葉という形にかえて何らか・どこかしらに放てば、その伝えたかった相手には直接すぐに伝わらなくても時間や距離を越えて連鎖的に、とか波及して、いつか伝わるような気がしている
何となくだけれど、強く、思う
何か書いちゃう理由みたいなものが少しだけわかったような気がする、110日目の気持ち