#自分で選んでよかったこと
外で食べて帰るか?
買って帰るか?
それとも家にある残り物で料理をするか?
残っている仕事を終わらして帰るか?
やっぱり終わらせて帰るか?
それとも疲れたってことにして翌朝するか?
私たちは、一日中、常に何かを選び続けています。これが日々の生活です。
選択にはさまざまなものがあります。
たとえば、何を食べようか、何を着ようかという小さな選択もあれば、どの会社に入ろうかという人生の岐路に立つような大きな選択もあります。
理容師になろうと思ったのも、そして、理容師として独立するという決断も、私にとっては非常に大きな選択の一つでした。
理容師としての道を歩み始めたとき、私は自分の技術やお客様との信頼関係を基に、一歩ずつ進んできました。
そして、10年以上前に独立を決めたとき、今までにないほどの覚悟が必要でした。
まず最初の就職活動のとき、私はこれまでにないほど思い悩みました。
もともと、私は重大な選択をするときに秒速で決断できる性格でした。
いつも直感的に「これだ!」と思ったら、ほとんど迷わず即断即決で行動してきました。
しかし、歳を重ねるごとに「選ぶこと」がどんどん怖くなっていきました。
特に、新卒で入社するお店(理容室)を決めるときは、その恐怖がひどくなりました。
世の中にはたくさんのにお店があり、さまざまなビジネスやサービスがあります。
それを前にして自己分析に悩み、自己分析をするうちに「自分とは何なのか? 自分は何がしたいのか? 何が好きなのか?」と迷走してしまい、挙句の果てには思考が散らかってしまうこともありました。
自己分析で作り上げた自分像では、本当にやりたいことを見つけることはできませんでした。
たとえ自己分析をして自分のやりたいことや好きなことがわかっても、今度はそれを仕事にするかどうかという新たな選択が生まれます。
「好きなことを仕事にせよ」という人もいれば、「向いていることと好きなことは違うから、混同してはいけない」と言う人もいます。
「好きなことは趣味でやればいい。だから、とりあえず安定していて休みも取れてお金ももらえるホワイト企業に入りなさい」という人もいれば、「若いうちの苦労は買ってでもしろ。自分を鍛えろ。だから激務の会社に入れ」というスパルタ式の意見もあります。
さらには「会社に入らなくても生活はできる。若いうちに起業せよ」という楽天的な意見や、「まず3年は会社での経験を積まないと社会人としてやっていけないぞ」という厭世な意見もあります。
それぞれに偏りはあるものの、一理あるように見えるのです。
「後から転職しやすいように、つぶしの効くコンサル業界に入っておけ」というアドバイスもあれば、「一つ決めたものを貫き通すのが仕事だ。初めから転職するつもりで仕事を選ぶな」という論もあります。
もう何を選べば正解なのか、全くわからなくなり、頼りの直感も全然働かなくなってしまいました。
インターネットを開けば、働き方やビジネスについて大人たちがあれこれ語っている。
就職活動の仕組みが悪だと主張する記事に対して、当時の私は「その通りだ」と深く頷いていた。
「こんなに苦しいのは、今の就活システムのせいだ!」と一時は安心したかと思えば、次には「就活のせいにしているような人間は、何をやってもダメだ」という別の記事を見つけて、ますます混乱してしまう。どれももっともらしく聞こえてしまうのだ。
頭が爆発しそうだった。
いろんな人がいろんなことを言う。
世界は広い。多様な意見が飛び交い、発信される。今は誰でも発信できる時代で、誰もがそれを知る権利がある。
しかし、それがむしろ、選べない苦しさを助長する。
自由は確かに幸せなことだけれど、それは同時に難しいことでもある。
選ぶということは、苦しい。選べる環境にいること自体が幸せであることは頭では理解しているものの、その恵まれた環境ですら責任を果たせない自分に、もどかしさを感じていた。
当時の私は、何が正しい決断なのか、何を選べば「あなたは正しい」と認められるのか、あるいは自分で正しかったと思えるのかが、全くわからなかった。
多くの情報が頭の中で飽和状態になっていた。
話を聞きに行ったお店すべてに魅力を感じた反面、どのお店にもピンとこない部分があった。
全然決められないから、結局は「なんとなく」で入社を決めた。しかし、社会人として働き始めた後も、このお店を選んだことが本当に正しかったのか、自信が持てなかった。
旧友や同期が楽しそうに働いている姿を見ると、不安が募った。
頭では「隣の芝生は青い」とわかっていても、同じ環境にいるにもかかわらず「自分よりもその環境に適合できている人」がいる現実に焦りが止まらなかった。
すごいなあ、私ももっと頑張らなきゃと思う一方で、どこか自分だけが間違って別の星に生まれてしまったような違和感が心によぎった。
私は、ここで必要とされているのかな?
本当にこのお店に入ってよかったのかな?
もう少し就活を続けていたら、もっと考えていたら、違う未来があったんじゃないかな?
あのとき、あっちを選んでいた方がよかったんじゃないかな?
私は、本当にこのままでいいのかな?
考えれば考えるほど、不安が現れては消えていく。
そのたびに「大丈夫、自分の選択は間違っていなかった」と自分に言い聞かせる。その繰り返しだった。
そんな風に悩んでいたとき、ふと学生時代の記憶が蘇ってきた。
高校の時の同級生
彼はとにかくメンタルが強く、勉強、スポーツでも優秀で、多くの人に慕われていた。
彼の口から「ああすればよかった」「こうしておけばよかった」といった言葉はほとんど聞いたことがなく、「ああしてよかった」「こうしてよかった」というプラスの言葉ばかりを口にしていた。
もしかしたら、「正しい選択」という言葉の定義について、私はきちんと考え直すべきなのかもしれない。
きっと、メンタルが強そうに見える人や幸せを感じやすい人というのは、「正しい選択ができた人」ではなく、「自分がした選択が正しかったと思える理由を見つけるのが上手い人」なのだ。
「あのとき、ああすればよかったのに」
「こうすればもっと上手くいったのに」
そんな風に自分の選択を後悔するのではなく、自分の選択が正しかったと決めてしまうこと。
その理由を見つけること。それがとても上手なのだ。
私たちは常に何かを選び続けている。
他人が選ぶのを横で見ながらも、選択をしている。そして選択しながらも、不安を抱える。
常に自信満々に選択をしている人などいない。
みんな、「本当に自分の選んだ道は正しかったのか」「あのときあっちを選んでおいた方がよかったんじゃないか」と考えながら、でも巻き戻しはできないから、頑張るしかない。
だからこそ、他人のことが気になる。
少し前まで自分と似た環境にいたのに、自分とは別の選択をした人のことが気になる。
他人が幸せそうに見えると、自分の選んだ道が間違いだったんじゃないかと思えてしまうからだ。
あるいは、人が他人を妬んだり、蹴落とそうとしたり、悪口を言ったりするのは、その人の選択を「間違い」にすることで、自分の選択を「正しい」ことにしたいからなのかもしれない。
「生きる」というカードを選び続ける限り、私たちは常に何かを選び続けなければならない。
ならば、重要なのは何を選ぶかではなく、自分が選んだものが自分にとって正解だったと思えるように努力することなのではないか──そんな仮説を立ててみたのだ。
「選択のパラドックス」という概念をご存じでしょうか?
これはアメリカの心理学者バリー・シュワルツが提唱したもので、私は彼のTEDトークでこの理論に触れる機会があった。
「多すぎる選択肢が引き起こす感情」について、彼は非常に興味深い視点を提供していた。
通常、選択肢の多さや自由度の高さは、ポジティブなものとして捉えられることが多い。
それは事実であり、選択肢が多いほど人々はより満足できる選択ができると考えがちだ。
しかし、シュワルツは、選択肢が増えることで逆に「開放感」ではなく「無力感」を抱き、選択をすること自体が難しくなると指摘した。
彼は、こうした問題に着目し、選択肢が多すぎると生じる「選択のパラドックス」について説明した。
要約すると、選択肢が多すぎると、私たちは「これだけ多くの選択肢があるなら、自分にぴったりの完璧なものがあるはずだ」と期待してしまう。
しかし、その期待が高まるほど、選択を行った後でも「別の選択肢を選べばもっと良かったかもしれない」という後悔が生じやすくなる。
これにより、たとえ選択自体が良いものであっても、その満足度は減少してしまうのだ。
さらに、シュワルツは、多くの人が「完璧な選択をできなかった」ことに対して、自分を責めがちであることを指摘した。
本来、「自分に完璧な選択肢がない」ことの責任は、個人だけでなく、環境や社会にもあるはずだ。
しかし、選択肢が多すぎると、人々はその結果を全て自分の責任だと感じやすくなる。
このような自己責任感の増大が、特にアメリカでうつ病が増加した一因である可能性があると彼は考えている。
スティーブ・ジョブズがAppleから追い出され、長い迷走の末にPixarを成功させた経緯を通じて、自分自身が迷いや不安を乗り越えるための心の持ちようを表現しています。
選択の際に感じる「選択のパラドックス」や、失敗への「後悔」といった人間の本能的な恐怖が語られていますが、
ジョブズの例から、「間違った選択」や「失敗」も最終的には成功につながる可能性があると自分自身を励ましています。
不安を放し飼いにし、必要であれば病院や薬に頼りながら、「怯える自分」も受け入れ、幸せを感じる状況を意図的に作り出してきたと述べています。
また、未来に対する迷いや後悔に囚われたときには、ジョブズのように、「とりあえず」の選択をし、その選択を正解にするために努力を続けるべきだと主張します。
失敗を経験として受け入れ、それを人生の肥やしとして活かすことが深い教養をもたらし、幸福度から差し引きされるべきではないと信じています。
だから今も必死にお店(理容師、理容室)を続けています。