巡禮セレクション 22
2014年07月02日(水)
河童と式神
宮城県色麻町の磯良神社には、河童大明神が祀られているそうです。
この河童さまは、坂上田村麻呂を先導したと伝えられています。
作家の高田崇史説では、この河童は猿田彦神の役割を担ったとか・・・
田村麻呂公は蝦夷征伐に蝦夷を使い同士討ちをさせたと聞きます。
きっと色麻町の河童さまも蝦夷だったのだと思います。
なぜ、磯良神社の祭神が河童なんだろう?
「河童の別名の「ゴウラ」「ゴランボウ」は、河童が背負っているという「甲羅」からきている。
ではなぜ河童が甲羅を背負っているのか。海の生き物「亀」と「河原」からの連想だろう。
そして「ゴウラ」には「石がゴロゴロしていて住みにくい土地」という意味もあったという。」
「河原に住んでいた人々は「川郎(かわろう)」とも呼ばれ水辺で瓦(かわら)を焼いた。
ここでも野見宿禰に繋がる。
ちなみに「磯」にも「かわら」という読みがあり「水中の磧(せき)である」と解説されている。
「磧」も「かわら」と読み「石で責められる」場所という意味だ。」
磯と甲羅が繋がっているからかもしれないです。
甲羅といえば、福岡県の筑後国一宮高良大社(こうらたいしゃ)の祭神は高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)ですが、一般的に武内宿禰のことだとされています。
しかし、一方で、この神は安曇磯良だという説もあるようです。
河童は尻子玉を抜くと言いますが、玉も意味があるかもしれません。
また、河童の別名で甲羅童(高良大社の使神)があるようなので、どうしても磯良と関係あるのかもしれません。
海の神は、川を遡り川の神になったのかもしれませんね。
磯が「かわら(河原)」と読むのは意味深そうです。
そして磯良は、河童にされた可能性があります。
話は変わって、陰陽師安倍晴明は式神という鬼神を使役したと伝えられています。
これまた高田説では、平安時代、人と呼ばれるのは一部の貴族だけで、
その他は鬼や童等と呼ばれていたということです。
そして式神もこれらのグループで、今で言う人ですが、当時は人扱いを受けていなくて、
人として見えない存在として伝わったのだと説いています。
式神は普段、一条戻り橋の下に隠してあったと言いますが、
彼らは橋の下、川沿いで生活する河童だったのだと思います。
晴明は、そういった川の民を使役したわけです。
まるで少年探偵団を使う明智小五郎のようです。
前出の色麻町の河童さまと式神が重なります。
もしかすると色麻は、式魔なのかもしれませんね。
それと考えすぎかもしれませんが、色、式は磯城と繋がるかもしれません。
高田説によると河童の先祖には野見宿禰がおり、相撲の神様である野見宿禰を先祖を持つから河童は相撲好きなのだと言います。
野見宿禰は、古代出雲族のトミ家の伝承によるとトミノスクネであり、出雲族であると伝えます。
そうなると河童とは出雲族に属する可能性があります。
河童は川の民であり、川は砂鉄の産地であり、彼らは製鉄民または採鉄民だと考えられます。
これは製鉄に関連深い出雲族とも共通します。
そうなると猿田彦神との関係も出雲繋がりで見えてきます。
また、磯城家も登美家が磯城に住んだことからそう呼ばれたと伝わります。
出雲の鴨家は葛城に進出しますが、
晴明の師は賀茂忠行・保憲父子です。陰陽師は賀茂家の秘術でした。
また葛城出身の役小角も賀茂氏です。
これらは、葛城の鴨族から出ています。
葛城の賀茂氏と別という説もありますが、同族とも考えられる山城賀茂氏の祖といえば建角身命です。角の字が付きます。
賀茂氏もまた角を持つ鬼の一族なのかもしれません。
そうなると陰陽師賀茂家は式神を使役したのだから、
式神=河童=蝦夷とみるなら、
同族でありながら主従の間、征服者と被征服者の間があったのかもしれません。
少なくとも、同じ出雲族であっても身分の違うグループが存在していた可能性があります。