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巡禮セレクション 46

2013年11月12日

大田田根子の出身地


先日、大阪は和泉国に巡礼してきました。
その際に調べたのですが、
その中で、巡礼とは関係なく大田田根子がこの辺りの出身だということを知りました。
これが、なかなか気になったのです。


「日本書紀・崇神7年条、疫病流行・災害発生など国内が乱れたとき、その因をなした三輪の神・大物主神の夢告を受けた天皇が、茅渟県陶邑から大田田根子(オオタタネコ)を見出して、これを祭主として大物主神を祀ったら、疫病が収まり国内が鎮まった」


古事記・崇神紀によれば、祟り神・大物主神(三輪山の神)を祀るべく求められた大田田根子は、河内国の美努村で見つかったというが、書紀では茅渟県陶村(現堺市上之附近)で見つかったとあります。
今は、堺市の茅渟県陶村が大田田根子の出身地だというのが有力だそうです。

それは、この地域に須恵器が、
堺市の泉北ニュータウンを中心に西は和泉市・岸和田市、東は大阪狭山市の東西15キロメートル、南北9キロメートルにおよぶ泉北丘陵一帯で大規模に焼かれ、各地に運び出されていた形跡が考古学的に確認されているからです。

これらの窯跡群は、『日本書紀』に書かれた古い地名の「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)」にあたるとされ、陶邑窯跡群と名付けらています。

一方、古事記にいう「河内の美努村」とは、一般的には河内国若江郡三野付近とされています。
現在の地名では、「八尾市上之町南」辺りとなります。


ただ、和泉国が河内国から分国されたのは、孝謙天皇・天平法字元年(757年)5月8日のことで、

古事記の成立は、元明天皇・和銅5年(712年)1月28日。
日本書紀の方は、元正天皇・養老4年(720年) 5月の完成なので、分国前の旧河内国時代に編纂されたものですから、どっちにしろ、大田田根子は河内国のおっさんということです。(いや女性かもしれませんが・・・)
なので、表記の違いこそあれ、同じ場所の可能性もあります。


今、茅渟県陶村に比定されている地には、
陶荒田神社が鎮座しています。
しかし、ここの祭神は、大田田根子関係というより、名前の元となった荒田直の関係の神々です。

荒田直とは、新撰姓氏禄(815)に、
「和泉国神別(天神) 荒田直 高魂命五世孫劔根命之後也」
とあり、剣根の子孫なのです。
この剣根は、神武東征のおり、前に書いたシネツヒコを倭国造に任じたように、同じ時に剣根を葛城国造に任じており、武内宿禰とは別の葛城国造家の祖なのです。

この剣根、かなりのキーパーソンです。
またそのうち書きます。
三島溝杭耳の孫です。
剣根の娘は、天火明命の四世孫(?)と結婚し尾張連祖を生むようです。

大田田根子は「父を大物主大神、母を活玉依姫といいます。陶津耳の女です。」と答えている。また別に「奇日方天日方武茅渟祗の女」とも言われているとある。

「父は奇日方天日方で、母は武茅渟祗の娘の活玉依姫」と解釈するなら「奇日方天日方」なる人物は、大神氏の系譜には、神武天皇の妃である姫蹈鞴五十鈴姫命の兄として載っている。奇日方天日方は三島の溝杭耳の孫で大物主OR事代主神の息子です。


前期前方後円墳は3世紀半ばから4世紀半ばに造られたと考えられている。一方、須恵器の生産が始まったのは4世紀末であり、大田田根子は崇神天皇の時代ですから、今まで仮定しているとおりでいけば、3世紀後半あたりの話しです。
そうするとその父かその曾々祖父辺りである大物主神は、どうやら卑弥呼の時代に重なってくるのでは・・・

よって、大田田根子の出身地は、陶邑といえど、当時は須恵器はありませんでした。
日本書紀編纂時の村名なわけです。

須恵器の故地は伽耶諸国ではないかと考えられています。
これまた、伽耶が絡んできます。
荒田の荒は、天日槍を祀る安羅神社に繋がらないでしょうか?
伽耶には安羅国という国があったそうです。


もう一つ古事記に記された大田田根子の出身地「河内の美努村」には、延喜式神名帳に、『河内国若江郡 御野県主神社(みのあがたぬしじんじゃ)二座』とある式内社が鎮座しております。

「古代豪族、美努連・三野県主が祖神を齋き祭った神社」とあり、角凝魂命(ツヌコリムスヒ)・天湯川田奈命(アメノユカワタナ=天湯川桁命・天湯河板挙命)を祀っています。

「江戸時代は河内郡上之島村の氏神で、天日大明神として崇め祭った」


祭神の天湯川田奈命とは、
「天皇の皇子・ホムツワケ命は30歳になるまで物が云えなかった。ある時、白鳥(クグイ)が空を飛んでいくのを見て、『あれは何物か』と云った。天皇が『誰か、あれを捕らえて献上せよ』と云われたので、鳥取造の祖・アメノユカワタナが『私が捕らえましょう』と云って、出雲まで鳥を追いかけて、捕らえ献上した。
 ホムツワケは之をもてあそび、物が云えるようになった。天皇は之を賞して、ユカワタナは鳥取造の姓(カバネ)を贈り、鳥取部・鳥養部・誉都部を定めた」
と・・・これは鳥取巡礼に繋がってしまいます。

『折口信夫は、ユカワタナのユカワは斎河(ユカワ)で、川の淵・池・湖の上の棚にいて、神の訪れを待ち神の妻・タナバタツメであるというが、とすれば女神となり、当社祭神としては似つかわしくない。
 これに対して谷川健一は、火中から誕生した皇子・ホムツワケは(垂仁の后でホムツワケの母・サホヒメは兄サホヒコの反乱に荷担して、天皇に攻められ、燃え上がる稲城の中で皇子を生んだという)、タタラの炉の中から生まれたことを意味し、またユカワタナの“湯”は炉の中で金属が溶融した状態を指すとして、この説話にいうユカワタナは鍛冶集団が奉斎した神ではないかという。』
今度はタナバタ姫とも繋がる可能性があります。
それに○○○さんの日記の織物と鍛治の一つ目の神に共通しそうな気がします。
なんか、最近の話題にどんどん繋がっていくのですが・・・


僕的には、河内の美努村のほうが、大田田根子が祀った大物主をニギハヤヒと見るなら、物部氏の石切に近いし相応しいと感じます。

また、御野県主神社のちょうど東に3km辺りに玉祖神社があります。
ご祭神は、玉祖神こと櫛明玉命ですが、
『大和では祭神名が櫛玉命となっている場合には、饒速日命の事と見ていいとは、広瀬大社の樋口宮司の言である。
それは崇仏戦争で物部守屋が蘇我氏と聖徳太子の軍に敗れ去った後の残った物部氏族の祖神を祀る知恵として櫛玉饒速日命の名を櫛玉命のみに隠したと言う事であろう。 』という話もあるようです。

この神社の住所は、神立と言いますが、大田田根子の旅立った地ではないのか・・・と想像してしまいます。


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