巡禮セレクション 26
2013年10月26日(土)
徐福から考えてみる
和歌山の歴史において、
国縣神社の祭祀と徐福の来日、それに神武東征について考えています。
まだ、結論は出ませんが、一つ徐福を基点に置いて考えてみたいと思います。
徐福は、秦の時代の人です。
およそ紀元前3世紀にあたります。
BC219年に上海の少し南辺りから出港したようです。
途中で朝鮮半島西岸に寄航し佐賀県に上陸したようです。
いくら徐福が方士であり不老不死を求めてたとはいえ、常識的に考えるなら紀元前2世紀あたりに行動した人でしょう。
感覚的にいうとBC210~BC150とか・・・大雑把な個人的感覚ですが。。。
当時の日本はというと、日本書紀の記述を信じるなら、
第7代孝霊天皇の時代(BC290-BC215在位)です。
そして次の第8代孝元天皇(BC214-BC158在位)ですかね。
「海東諸国紀」という朝鮮の書物によると、
『孝霊天皇。孝安天皇の太子なり。元年は辛未。七十二年壬午、秦の始皇帝、徐福を遣わし、海に入り仙福(不老不死の薬)を求めしむ。遂に紀伊州に至りて居す。在位七十六年。寿百十五』
とあります。
「海東諸国紀」は、李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟(シン・スクチュ)が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行されたものです。
1443年(世宗25年)朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、成宗の命を受けて作成したものだそうです。
15世紀に日本で見聞したことを記録したものなので、記紀などを資料にしたのでしょう。
だから、記紀とは整合性があるのだと思います。
第7代孝霊天皇の時代というと、
天之御影命が三上山に降臨しています。
あと、直接関係ないけど、
「職原抄」という北畠親房が書いた本には、
『孝霊天皇5年、大地に大きな裂け目ができて琵琶湖が形成され、その土が駿河国に積み上がり富士山になったという』
琵琶湖の土が積みあがって富士山になったと・・・これ、なんの意味があるのでしょうね?
近江富士といわれる三上山と関係あるのでしょうか・・・
孝霊天皇の母は、天足彦国押人命の女です。
この天足彦国押人命は、和邇氏の祖です。
孝霊天皇の皇后は、細媛命(磯城県主大目の女)。
前に書いた磯城氏の娘ですね。
孝霊天皇妃の中には、 倭国香媛(絙某姉、意富夜麻登玖邇阿礼比売命。和知都美命の女)がいます。
和知都美命の父は、磯城津彦命ですから、やはり磯城氏です。
和知都美命(和知津美命)は、椎根津彦(=倭宿禰、ウズヒコ)の子供だという説があるようです。
ということは、倭国香媛はウズヒコの孫だということになります。
そして、孝霊天皇と倭国香媛の子に、
倭迹迹日百襲媛命、
彦五十狭芹彦命(=吉備津彦命)
らが生まれているのです。
前の日記に書いたように、
紀氏も磯城氏も東征で滅ぼした敵の身内に、別人か同一人物かわかりませんが、ウズヒコの血が注入されている可能性があります。
こういう図式て事代主命に似ているのですよね。
実際、磯城氏の祖神は、大物主命であり、古代三輪山信仰の民だという説もあるようです。
このあたりは、今後追ってみたいです。
さて、孝霊天皇や次の孝元天皇の時代にただならぬものを感じてしまうわけですが、
考古学的に見ますと、
この時代、弥生前期後半から中期前半あたり、多分BC250-BC100辺りとだと思いますが、争乱の時代だったようで、傷を負った人骨が特に北九州で多数見られ、戦を逃れるため、高地の集落を移した形跡が近畿でも見られるようです。
やがて弥生中期後半になると、多分BC100-20辺りだと思うのですが、受傷人骨の出土は激減するようです。
この時代は、記紀の崇神、垂仁時代になると思います。
これから紀元前後に倭はあるていど纏まり統一され安定したと見れそうですね。
これが、神武時代なのか崇神時代なのかはわかりません。
そうなると、和歌山の戦以前に徐福が居たと考えるほうが素直ですね。
因みに、銅製品や鏡が作製されだしたのが、紀元前2世紀頃だとされているので、第8代孝元天皇辺り以降なら、日先・国縣大神である鏡の製造は可能です。
おそらく徐福のもたらした技術をもってすれば徐福以降に鏡の製作は日本で可能だったと思います。
ちょうど、この製作時期と徐福の活動時期は重なると思います。
もしかすると、紀国の名草族は製銅技術を持っており、
東征後、大名草彦によって鏡が作られたのでは・・・という想像もアリかもです。
徐福の時代と弥生時代(前期)の始まりは一致するように思います。
少なくとも、徐福のもたらした技術は弥生時代に大きな影響をもたらしたと考えられそうです。
『北宋の政治家・詩人である欧陽脩の『日本刀歌』には「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧」
(日本人の祖である徐福は日本に薬を取りに行くと言って秦を騙し、その地に長らく留まり、連れて行った少年少女たちと共にその地で老いた。連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)と言った内容で日本を説明する部分が存在する。』
日本の道具が優れているのは、徐福のおかげだと欧陽脩は記述しているのです。
ただし、徐福の上陸した佐賀県では、青銅器の製作がさかんであったようですが、受傷人骨も北九州では多く見られています。
このあたり、同じ弥生人同士で、おそらく出身地の違いが国の違いになり争いが多発したと考えられます。
徐福のもたらした技術は兵器として戦を大きくしたのかもしれませんね。
縄文時代と弥生時代の違いは、
縄文時代は、弥生時代に比べて圧倒的に争った跡が少ないようです。
『北部九州から伊勢湾沿岸までには、環濠集落・高地性集落、矢尻の発達、殺傷人骨、武器の破損と修繕などの戦争に関わる可能性のある考古学事実が数多くそろっており、戦争が多かったと推定される。
南九州・東海・南関東・長野・北陸・新潟は、戦争があったと考えられる考古学的事実の数が比較的少ない。
北関東と東北には戦争があった可能性を示す考古学事実はほとんどない。』
東征は、北九州の争いの延長か、争いからの逃避だったのかもしれませんね。
名草族も磯城族も敵であろうと帰順したものには、国造や縣主として継続してその地を治めさせました。
これは神武軍(弥生人)が縄文人より圧倒的に少数だったということもありますが、地元民と婚姻関係を結び融合、統合していったからかもしれませんね。
考古学的に東征の証は発掘できていないようです。
もしかすると神武東征のモデルは徐福一派の移動かもしれないと妄想できそうです。
ただ、紀元前2世紀、3世紀の争乱は、天忍穂耳が天下りした時の「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と天照大御神に報告した時代なのかもしれませんね。
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