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巡禮セレクション 34

2014年09月08日(月)

南宮


南宮大明神といえば建御名方命のことです。
そして南宮大社の神といえば金山彦命です。
敢国神社は諏訪社と記した記録もあるようで、当初は南宮山に少彦名をお祀りしていたそうです。

これらに何らかの共通項はあるのでしょうか・・・
建御名方命は、建御名方刀美神(たけみなかたとみのかみ)と呼ばれ、諏訪大社は南方刀美神社とかつては称していたことから、諏訪南宮の名称が生まれたのだと思います。

南宮大社は、崇神天皇の時代に、古くは仲山金山彦神社と呼ばれていたのを国府から南方に位する 故に南宮大社と云われる様になったと伝えられているそうです。

こりゃ、両社に関係ないな・・・
そう思っていました。
しかし、良く考えると崇神天皇の時代に国府てあったのだろうか?
国府とは律令制度の賜物のはずです。


敢国神社と南宮大社は繋がっています。
977年美濃一宮南宮大社の金山比咩が敢国神社に勧請されてきます。そして南宮山に祀られたのでした。
しかし、最初、山頂に祀られていた金山比咩が、山麓の敢国神社に一緒に祀れと訴えたために、敢国神社の祭神として三神が合祀されたということです。

僕は、金山比咩が一緒になりたかったのは、大彦でしょうか?それとも少彦名でしょうか?
と疑問を持ちました。


南宮大社を調べなければならない・・・そう思っていると一つのブログがヒットしました。
ハッシー27のブログ、「旅 235 南宮大社(1) 」です。
結構詳しく調べられており、興味を引く記事があったので、 そこから妄想を広めます。

『梁塵秘抄』の中に次のような歌謡があるようです。
「南宮の本山は、信濃の国とぞうけたばる、さぞまうす。美濃の国には中の宮、伊賀の国にはおさなき、児(ちご)の宮」
これは、南宮の本山は諏訪大社(信濃の国)であり、中の宮(仲山)は南宮大社(美濃の国)で、幼き児(ちご)の宮は敢国神社(伊賀の国)だと謡っているそうです。

南宮大社が仲山または中山と名乗っていたのは前述しています。
『梁塵秘抄』を編集したのは、ゴッシーこと、あの後白河法皇です。
ゴッシーは熊野詣最多記録を持つ方で有名です。
また源頼朝をして天下の大天狗といわしめた人物です。

おそらくゴッシーは徐福の聖地、熊野に精通し何かの秘密を知っていたのだと想像します。

その歌謡には、南宮の神は、諏訪と中山が同じでありその子が敢国だと言っています。

「南宮という言葉の由来には諸説があるが、その中に一つを紹介する。
 古来、鍛冶場、製鉄たたらの炉では、四方に柱を立てたそうだ。
押立柱といい、おそらくは結界を意味すると思われる。(諏訪大社の御柱祭でも、4つの宮に4本ずつ計16本の御柱が立つ。)
その中で南の座が製鉄の神の座であるので、南の柱が特に神聖視されたそうである。
南の柱には金山彦神(金子屋神)が祀られるならわしで、南の宮、南宮という言葉もこのことに由来するという。
建御名方神は本来「建南方神」だったのだろう。
タケミナカタに象徴される神は、金属を扱う集団だったようだ。諏訪大社の社家には諏訪氏、守矢氏、武居氏などがいるが、その中でも金刺(かなさし)氏は正に金属を扱う氏族を彷彿させる名前だ。」

金刺氏といえば、前に書いた多氏の支流です。
(「馬から鹿へ、馬鹿な神は福の神なのか・・・」参照)

鹿島神宮の元は多氏の氏神であったこと。
武甕槌神と経津主神は同神の可能性があること。
そしてこららはフツの神であり、ジョフツの一派である可能性を書きました。
多氏と徐福一派は繋がっているように感じています。
そして徐福一派の流れである敢国神社の大彦命。
大彦命は多彦命でもあるのでしょうか・・・
それから、○○○さんのタケミカヅチ=タケミナカタ感もこの繋がりから可能性が見えます。


南の柱に祀る金山彦と諏訪南宮大明神は、南の神として同じ位置を占めます。
また、金山彦と同じ役割というか同神ともとれる金屋子神の祭祀を司ったのは、阿部氏の裔だそうです。
阿部氏の祖は、今まで見てきた大彦命です。

これらは製鉄の神として繋がってきます。
もし、大彦命が徐福系秦氏であるなら大陸から祭神の製鉄技術をもたらした一族として製鉄の神になるのは自然です。

ネットを検索するとやはり金屋子神社の神主は安倍氏であり、中には大彦命を金屋子神と同一視している場合もあるようです。
これを信じるなら、安倍氏は先祖の金屋子神又は金山彦を祀っていると考えられます。
もしくは、金山彦=金屋子神として祖神を祀っていると考えられます。
これは、とりもなおさず金山彦=金屋子神=大彦命となるわけです。
(でも大彦命はたぶん、金山子神なんでしょうね・・・
だから敢国神社は幼き児(ちご)の宮なんでしょう。)

もし、そうなら南宮大社から金山姫を勧請したのは、彼女の夫の大彦命に会うためになります。
だから、金山姫は最初一人で南宮山に祀られたときに、大彦命と一緒になりたいと訴えたわけです。


その南宮大社に目を戻すと、その創建は、
「社伝によれば、神武天皇東征の砌、金鵄を輔(たす)けて大いに霊験を顕わされた故を以って、当郡府中に祀られたらせられ、」とHPにあります。

これは、長髄彦との戦いにおいて神武天皇を助けた金の鳶が金山彦に関係あるという意味になります。
一般的にこの金の鳶を放ったのが金山彦だということですが、この金鵄は金山彦の比喩である可能性があると思います。

○○○さんは、金の鳶はニギハヤヒか、その息子のウマシマジ説を考えておられます。
どちらにせよ、ニギハヤヒ=徐福説をとるなら徐福一派の加担になります。

先ほど金山彦=大彦命を説きましたが、これだと時代が合いません。
大彦命は崇神天皇の時代に四道将軍で活躍した人です。
崇神天皇と神武天皇では10代の差があります。

しかし、神武=崇神説が根強くあるくらいで、もしかすると同時代なのかもしれません。
僕は、神武と崇神は別人ですが、神武東征と崇神の戦いが混同していると考えています。

ある人は、神武東征ではなく、東遷だと言う人がいます。
これは、武力による強硬な支配ではなく、同族により受け入れだという考えです。
僕もその考えに賛成で、武力で大和を制覇したのは崇神ではないか・・・と考えています。

とすると、金鵄伝説は崇神時代であり大彦命の活躍の余地があります。
そして長髄彦も同様です。

「大彦は大兄の意味で安倍家の直接の子孫であり、個人名を中曽根彦と言った。ナカは龍神、ソネはスネークに通じ記紀では、長髄彦(ながすねひこ)と呼ばれた。」
という安倍一族の子孫の言葉 がまた思い出されます。


やはり、大彦命は長髄彦なのでしょうか?
でも、金鵄伝説では、神武を攻めたのは長髄彦です。
それを助けたのが、金山彦=大彦命=長髄彦なら自分で攻めて、自分で助けたって・・・自作自演?
そんなわけはないと思います。

大彦は大兄の意味なら、やはり安日彦なのだと思います。
弟長髄彦が神武を攻め、あぶないところで兄安日彦が仲裁に入ったのではないでしょうか?
その後、長髄彦はニギハヤヒに殺されるようですが、伝承によるとニギハヤヒを名乗った徐福は佐賀に上陸後、佐賀で亡くなっています。

和歌山をはじめとする徐福伝説は、徐福個人ではなく、その一派だと伝えられているようです。
実際、神武VS長髄彦の場面にニギハヤヒは直接登場しません。
もしかすると長髄彦は殺されていないかも・・・なんて気もします。


想像をたくましくするなら、この後、長髄彦がニギハヤヒの名を継ぎ、安日彦と同じく東へ移動したのかもしれません。
そうなら、長髄彦を祀る神社にニギハヤヒを祀る訳が説明がつきますし、鳥海山での手長足長、ナガスネ彦、そしてニギハヤヒの伝説も、安日彦とナガスネ彦が落ち合った場所が会津との説もしかりです。
ただ、長髄彦がニギハヤヒを名乗る理由がありませんから、ニギハヤヒを名乗らせたのは、後世のこじつけかもしれませんね。
僕は、ニギハヤヒのモデルは存在したけど、ニギハヤヒの実存は否定的な考えですから・・・

ここは、もう少し神武と崇神の時代からもう少し根本的に考えないといけないと思います。
勘違いしている可能性があります。
崇神時代ではなく、神武時代かもしれませんし、或いは同じなのかもしれません・・・


その長髄彦、こちらのHPのよると、
「・・・長髄彦はは鳥見彦とも言い、鳥見谷地方に根拠をもち「長層根の丘に住む人」として大陸系統の大男であったらしく、真弓・矢田などの地に弓矢の使い手として君臨していた部族の代表者・・・」と『生駒市誌Ⅴ』P34に記載されているようです。

大陸系統の大男・・・この由縁を知りたいところですが、僕は、手長足長を山東省人のDNAを持つ人だと想像しているのですが、徐福一派の中にこのDNAを持つグループがいても不思議はないと思います。
彼らは、東夷に当たりますし、これは夷の意味の元です。
徐福一派が最初に訪れたのは、出雲の伝承によると出雲でした。
ここで、徐福一派は大国主命に許可をもらい上陸し出雲族に同化していったのだと思います。
その血をトミ家が受けていたのなら、長髄彦の血が手長足長であり大陸系の大男であった可能性があると思います。

天孫族に娘を嫁がせた大国主命ですから、そんな同化はあったと思います。
もしかすると天孫族の一部は徐福一派の伝説を含んでいるのかもしれません。
そして、もしかすると神武も徐福一派と同族であり、それゆえに神武とニギハヤヒは同じ神器を持っていたのかもしれないですね。

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