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スピリチュアル的性教育

現在の日本において性教育というのは、難しいテーマなのかもしれません。
僕は、両親から性教育を受けた記憶がありませんし、学校では保健体育の時間に少し学んだ記憶がありますが、実生活に根差した知識だったとはあまり思えませんでした。なぜなら性という誰にでも平等に関わる本能でありながら、その知識を使って日常に活用した記憶がないからです。
そういった知識は、医学的、生理学的には意味のある知識だったと思いますが、もっと身近な知識としては不足だったように思います。
例えば、避妊の仕方にしても実際の避妊具の使い方は教えてもらったことがありませんし、その他のリスクとその回避の知識も学んだ記憶がありません。
これらに関して、日本の教育は、まだ責任能力の無い青少年にとって妊娠や避妊の知識を教えるのは相応しくないといった考えであるといった取材を以前、NHKのニュースで見たことがあります。
全く、不可解な理由です。

今回、僕が触れてみようと思うのは、そういった学校の性教育ではなくて、あえてスピリチュアル的に考えてみようということです。
スピリチュアル的な考察というのは、文部省も扱っていないでしょうし、他の宗教的な理念においても見かけることはありません。
むしろ、伝統的な宗教では性を扱うことはタブーのように否定的な見解があるように感じます。
例えば、仏教や修験道でも女人禁制といった性差別ともとれるような伝統がありますし、女性は修行にとって邪魔となる存在だと位置づけられたり。神道においても月経を赤不浄、出産を白不浄とけがれたものと忌みされてきました。
では、その母体から生まれた、全人類は穢れた存在だと考えるのでしょうか?
キリスト教における原罪もイブがアダムをそそのかして禁断の果樹を食べさせたことが問題だと説き、二人はそれ以降、裸を恥、陰部を隠すようになったと伝えています。

服を着ることが間違いだと言っているのではありません。露出狂はまともだと言っているのでもありません。
性に対する概念が昔とは違っていたということです。
その昔というのは、伝統的な宗教が世に広まる以前、グノーシス主義に見られるような原始的な自然信仰の中で育まれた性意識です。
古代の兵士は、性器に魔力が宿ると信じており、戦いの場においても性器を露出していたと記録されています。
また、シーラ・ナ・ギグという魔除けがあります。
wikiによるとこれは、「 女性の外陰部を大げさに表した裸体の彫刻。シーラ・ナ・ギーグとも。時折男性器もともに見られる。多くが古い時代のイギリスやアイルランドの教会、城、その他の建築などに見られる。」
と、教会をはじめ、建築物に飾られていたものです。

日本神話でも、アメノウズメは露出しています。

この女神の活躍がなければ、闇に閉ざされた世の中を救うべく天の岩戸から天照大神は出現することができませんでした。

この日本の最高神も女神です。
これでも、女性は穢れた存在だと言えるのでしょうか?
日本の国土は、イザナギとイザナミが、まぐわって作られています。

「イザナキ神はイザナミ神に
問いかけました。
「イザナミよ。あなたの身体はどのようにできているのか」と。

イザナミ神は答えました。
「私の身体はよくできているけれど、
よくできあがっていない部分が一カ所あります。」と。

それを聞いたイサナキ神は答えました。
「私の身体はよくできているけれど、
一カ所だけ余っている部分があります。
私の余っている所と、
あなたのよくできあがっていない部分を刺し塞いで、
国土を生み出そうと思いますが、いかがですか?」と。

イザナミ神は答えました。
「はい。それはよいお考えです。」

全能なる創造神が一人で作ったわけではありません。

この世の創造は、陰と陽、男性性と女性性、プラスとマイナスにより発生しているのは真理です。
神道には、この伝統的な信仰がまだ残っています。

朝廷の影響がまだ少ない東北のアラハバキ神社です。
画像の左下側に、男性器が祀られていることが見て取れます。
男性器をご神体としているのは、まだとこどころで見られます。しかし、本来は男性器と女性器のセットだったはずです。
これは、陰陽石をご神体として祀る場合に見れますが、女性器のシンボルは男性器に比べて少ないと思います。
陰陽石は、鶴亀石とも呼ばれます。

しかしながら、世は男性社会です。イエスは、処女受胎した聖母から生まれ、アマテラス、ツクヨミ、スサノオといった三貴神は、イザナギから生まれています。
いつしか、世界の支配構造にとって都合の良いように変えられていったのだと思います。
その呪は、未だに続いています。
例えば、キリスト教で十字を切る場合、図のようになります。

十字架は、ご存じのように、横棒と縦棒が重なって十字を形作っていますが、横棒より上の部分が下より短くなっています。
しかし、実際十字を切るときは、頭、胸の縦棒と、左右の肩の縦棒を重ねると、縦棒の下のほうが短くなってしまいます。
十字が逆さまに向いていることになります。
これは、本来は、縦棒が頭と性器に位置するはずです。こうすれば下のほうが長くなって正常な十字の形になります。
つまり、性が隠されてしまっているのです。
これに伴い、父・子・精霊と唱えるのですが、本来は、父・母・子の三位一体であるのが自然です。母神、女神が隠されてしまっています。

このように、男性と女性のまぐわい、性については、隠されたものとして恥ずかしいもの、卑猥なもの、おおぴらにできないものとしての伝統が築かれたのだと思います。
だから、教育の場で、その知識を伝えることはすごく制限されたものになったのだと思います。

性本能は、食べることと同じくらい大切な本能、子孫を反映させる本能、国を富ませる本能でありながら、その手法さえも正しく伝えられなくなりました。
だから、青少年は、AVであるとか、雑誌であるとか、インターネットであるとか雑多な知識に頼らざるをえなくなったわけです。
それらの目的は、教育ではありません。
その目的は売上です。
人々の性的欲求を満たすために作られた作品であったり、一部の情報であったりするわけです。
その本質は、そこにはありません。
YouTubeで、有名なAV男優さんが、決してAVを手本にしてはいけないと説いていました。あれは現実的にあり得ませんから。と伝えていました。

そういったものに頼った私たちの性行為は、どうしても男性優位の手法となってしまいます。
世の女性の多くは、満足を得られず、男性は、その不満を解消するために更にAVやネット情報に頼った間違った手法に着手しがちになります。

男性は火に、女性は水に例えられます。
男性の性的興奮は火に燃料を注ぐように短時間で燃え上がり、すぐに鎮火します。一方、女性は水が熱量を得て、徐々に沸騰していくがごとく時間がかかり、冷めにくいものです。

ここでは、スピリチュアル的考察としているので、肉体的な快感や満足については探求しませんが、そういった性質は、多いに理解されるべきだと思います。
それはエネルギーの循環を伴うからです。
一般的に得られるオーガズムは、肉体的或いは、局部的な快感で終わります。たとえ、深いオーガズムを得たと思っていても、局部的な痙攣でしかなく、私たちの知らない部分の深奥な快感には達していません。

本来、性エネルギーの持つポテンシャルは、私たちの想像以上の力を秘めています。
私たちは、多くの場合に、そのパワーを放出し、活用できないでいます。
ここでは、その活用法には追及しませんが、性エネルギーについての認識は改めるべき時代にきていると思います。
それが、スピリチュアル的性教育です。

性エネルギーの分泌が活発な青少年は、特にこのエネルギーを無駄にせず、自分の精神的、心身的成長の糧とするべきだと思います。
性エネルギーは、思考のエネルギー、運動のエネルギー、感情のエネルギーへと変化し、各エネルギーセンターへとエネルギーを分配します。
青少年は、極端でない、健全な運動、勉学、芸術活動などによって性エネルギーをバランスよく昇華することができます。
また、呼吸法などのエクササイズによって意識的に性エネルギーを分配することもできます。
こういった知識は、学校で教えられることは皆無で、せいぜいヨガスクールなどで興味のある人に対してのみ伝えられているのが現状です。
世の中は、性エネルギーを直接浪費させるか、或いは変化させた性エネルギーを浪費させるように向けられています。

スピリチュアルというのは、ただ単に精神のあり方、振る舞いやマインドの持ち方、様式だけでなく、その根本であるエネルギーの状態と活用についても意識をむける必要があると思います。
そうしないと、霊や魂の発育のエネルギーも得られず栄養失調のままに生きることになるからです。

新しいアクエリアスの時代、風の時代は、こういった情報や知識に対しても開かれた時代になるはずです。開かれたマインドは、過去の常識や概念に囚われることなく、本質を探究していきたいですね。




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