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巡禮セレクション 57

2014年01月13日

八幡神の謎(後編)

元々、五十猛命が八幡神だったのに、応神天皇がかぶさってきたように思います。
とにかく、八幡神は朝廷にとって重要な神になりました。


香春神社は、三山の連なった山の信仰で、
一ノ岳は、辛国息長大姫大目命といい、
新羅神、香春神、鹿春神とも言うようです。
一説には、新羅の王子 都怒我阿羅斯等が追ってきた 阿加流比売だということです。
他の説には、神功皇后(息長帯比売)とも言われているようです。

ニノ岳は、忍骨命こと天照大御神の第一皇子・天忍穂耳命だそうです。
和銅2年(709年)新宮創建以後、新宮を本宮、本宮を元宮とし、新羅の太子神を天照神の御子神「天忍骨命」としたそうです。

三ノ岳は、豊比咩命で、
元々は、古宮八幡宮に祀られていたようで、
その古宮が香春神社の元宮だとされており、阿曽隈社と呼ばれていたようです。

豊比咩は、神武天皇の外祖母、住吉大神の御母。
すなわち、神武天皇の母、玉依比咩と神武天皇の叔母、豊玉姫の母である海神ワタツミこと豊玉彦の后ということだそうです。

一ノ岳を見る限りでは、神功皇后ぽいですね。
そして新羅ぽく思います。
どうやら神功皇后、応神天皇は新羅由来のようにも読めます。
八幡信仰は、この親子神への信仰に変わっていったのかもしれませんね。
神功皇后は聖母(しょうも)と呼ばれるように、マリアとイエスの信仰にも重なって見えます。
辛嶋氏は、秦氏の氏族であり、豊の国は、秦王国でした。秦氏の信仰が古代キリスト教にあるのなら、可能性はあると思います。
三山の信仰は、伏見稲荷にも見えますし、伏見稲荷は秦氏の聖地でしたからね。

神功皇后の月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。
京都の月読神社は、現在、秦氏の松尾大社の摂社となっています。

後にこの三神は、一ノ岳麓に纏められたようです。
これが、元明天皇・和銅2年(709)ですから不比等の時代です。


その後、辛嶋氏は、宇佐へ移り宇佐神宮創建に関わります。
当時、辛嶋氏は、宇佐神宮の祖宮と呼ばれる現在の大分県中津市にある 蔦神社(こも)の神官もしくは巫女をしていたようです。
薦神社の御神体は、三角池という池です。
辛嶋氏は、水神信仰であり女神信仰を持っていたようです。
最初の五十猛命信仰から変更されたのでしょうか?
もしかすると、辛嶋氏はシャーマンの氏族だったといわれています。
元々は、五十猛命を祀っていた巫女だったのが、そのうち巫女自体を神格化し祀るようになったのかもしれませんね。
もしくは、親子神、夫婦神などの男女神の信仰であったのが、女神信仰に重点を置かれたのかもと想像できます。


薦神社(こもじんじゃ)は、大分県中津市に所在する八幡宮で、別名大貞八幡宮(おおさだはちまんぐう)とも称される。境内の三角池(みすみいけ:古くは「御澄池」と記すこともある)を内宮、神殿を外宮とする。全国八幡宮の総本宮である宇佐神宮の祖宮といわれ、承和年間(834-848年)の創建と伝える古社である。

祭神:本殿 - 応神天皇(八幡大神)、比咩大神(宗像三女神)、息長帯比売命(神功皇后)

ご社殿の造営は承和年中(834~48)と伝えられていますが、歴史は遙かに溯り、八幡大神顕現にかかわる上古以来の歴史を刻むものであります。
八幡の由緒を記した『八幡宇佐宮御託宣集』によれば薦神社は古くから八幡神と深いかかわりがありました。

養老3年(720年)、大隅・日向の隼人の反乱(大隅国府襲撃)で大伴旅人が率いる大和朝廷軍および宇佐神宮の辛島波豆米(からしまのはづめ)率いる宇佐「神軍」が、薦神社の三角池に自生する真薦を刈って作った枕形の御験、薦枕(こもまくら)を神体に、神輿を奉じて日向まで行幸し、乱を鎮めたと言われる。

宇佐神宮創建の5年前の話になります。


ちょっと、宇佐八幡宮HPの年表を見てみます。

712年(和銅 5)鷹居社を造り、八幡大神を祀る居社を造り、八幡大神を祀る

716年(霊亀 2)八幡大神を小山田社に移し祀る。

薦神社以前に八幡神は祀られています。
これは、八幡神降臨伝説と辛嶋信仰が平行して成り立っていたと考えられそうです。
ということは、八幡信仰と辛嶋信仰は、後に融合したということですかね・・・


725年(神亀 2)小椋山(現在の本殿地)に八幡大神一之御殿を遷座する。

733年(天平 5)天平3年の託宣により、二之御殿に比売大神鎮座する。

748年(天平 20)東大寺、八幡神を勧請する。(現手向山八幡宮)

814年(弘仁 5)最澄、渡唐を願い、八幡大神、香春神に法華経を講ずる。

823年(弘仁 14)八幡宮に神功皇后(三之御殿)を祀る。空海、八幡神を東寺に勧請する。致祭を始める。

元々、八幡神は一柱でした。
これに比咩神が加えられています。
823年に神功皇后が加えられるまでは、二柱だったのです。
この年に空海が八幡神を東寺に勧請しています。

二柱から三柱の信仰に変えたのは空海の影響があったのではないでしょうか?
空海は、稲荷山を秦氏から引き継いでおり東寺の守護神にしていますから関係あると思います。
伏見稲荷が三の信仰なのは前述しました。

しかし、複雑怪奇ですよね。
かなり混乱してきます。


他にも宇佐神宮の元宮と呼ばれるものがあります。

宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、大分八幡宮が本宮であるとある。

大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)は、福岡県飯塚市にある神社。旧社格は郷社。筥崎宮の元宮として知られる。
祭神:応神天皇、神功皇后、玉依姫命

奈良時代の神亀3年(726年)に創建された。社伝によればこの神社がある場所は神功皇后が三韓征伐の帰途、一時逗留した地であるという。

『筥崎宮縁起』(石清水八幡宮記録)によれば、平安時代の延喜21年(921年)箱崎浜(現福岡市東区箱崎)への遷座の託宣があって、延長元年(923年)に遷座したのが筥崎宮の始まりであるとし、宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』にも筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあるが、筥崎宮へ遷座した後も九州五所別宮の第一社として篤く信仰されていた。

しかし、これも宇佐神宮以後の726年創建です。


また、金富神社(きんとみじんじゃ)は福岡県築上郡築上町にある八幡神を祀る神社である。豊前綾幡郷の郷社であり、宇佐八幡宮の元宮とする説がある。

祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、高龗神(たかおかみのかみ)、木花咲夜姫命(このはなさくやひめのみこと)

神亀元年(724年)宇佐に八幡神を祀る神殿(宇佐神宮)を造営するにあたり、神託により当地で斧立神事を行った。その際に仲哀天皇・応神天皇・神功皇后の3神を勧請して創建されたと伝えられるが、それ以前から宇佐八幡宮の元宮、若しくは霊地であったという説もある。

宇佐神宮に823年に神功皇后が加えらる以前に仲哀天皇・応神天皇・神功皇后の3神を勧請して創建されたと伝えられています。

どうも、720年前後の辺りに、宇佐神宮の祖宮のようなのが今の宇佐神宮の地にあったのですが、その形を形成していく神社が他にもあり、それらが融合していったと考えられそうです。


ところで、欽明朝に現れた八幡神からは、それでも随分時間が経っています。

辛嶋家主解状(弘仁5年-814-2月23日)には、
「一曰、大御神は欽明天皇の御世、宇佐郡辛国宇豆高嶋(カラクニ ウズ タカシマ)に天降り、続いて大和国膽吹嶺(イブキ)・紀伊国名草海島・吉備宮神島に移り、そこから豊前国宇佐郡馬城嶺(御許山)に始めて顕現された。

八幡神が最初に降臨した、宇佐郡辛国宇豆高嶋は、現在の稲積山だと考えられており、稲積六神社が鎮座しています。

辛嶋氏は、辛嶋郷に住み、稲積神社を建てます。

宇佐神宮に関する辛嶋氏伝承では、八幡神は、欽明天皇の御代、宇佐郡辛国宇豆高島に天降り、大和国の膽吹嶺に移り、紀伊名草海島、吉備神島と渡って、宇佐郡馬城嶺に現われ、乙咩社、 酒井泉社、 瀬社、 鷹居社、 小山田社、 現社地(宇佐神宮)へと移ったとする。

その「宇佐郡辛国宇豆高島」が、この稲積山ではないかと、「八幡信仰」において中野幡能氏は指摘する。
山の北側に「スエ村」があり、古くから辛嶋氏が居住した地。
また、修験道とも関連の深い山である。
求菩提山で千日行を行う修験者は、高瀬村ヤハタ八幡宮の海岸で禊をし
ここ、稲積山権現参拝で峰入行を終了する。

稲積山という名からは稲荷系を連想するが、祭神は熊野系。
それが原始八幡信仰と関連があるというのも面白い。


八幡神が宇豆高島に降臨した後、
大和国の膽吹嶺
紀伊国名草海島
吉備宮神島
そこから、
豊前国宇佐郡馬城嶺(御許山)に戻っています。
その後、比志方荒城磯辺(ヒシカタ アラキ イソベ、現乙咩社)に移られた。
この間が、失われた145年の過程なのかもしれません。


八幡神は、ウズタカシマから奈良に来ています。
それも大和の膽吹嶺に移っています。
『八幡宮寺成立史の研究』62ページには、膽吹嶺とは、宇陀郡にあった伊福だと書かれています。
今まで見落としていたのですが、イブキに八幡神は来ていたのです。

宇陀村には、大字「大神」という地があり、ここが大神比義の出身ではないかと書かれています。

その姿を見ると病になる祟り神は、八つの頭を持った龍神であり、鍛治の神でした。
その神が大神比義によりイブキに一時もたらされます。
伊吹山の神がヤマタノオロチと呼ばれることと符合してきます。

その後、八幡神は、紀伊国名草海島に行きます。
名草とえば、神武東征の折の名草戸畔を思い出します。
和歌山市のいくつかの神社は名草姫命(名草戸畔)と名草彦命を祀っています。

大名草彦の子孫が紀伊国造家で、日前国懸両神宮神官です。この家系からは、丹羽氏が生まれており、武内宿禰の母も生まれています。

紀伊の神といえば、伊太祁曽神社の祭神、五十猛命 (いたけるのみこと) - 別名:大屋毘古神です。
辛嶋氏の祖神です。

伊太祁曽神社は、古くは現在の日前宮の地に祀られていたが、垂仁天皇16年に日前神・国懸神が同所で祀られることになったので、その地を開け渡したと社伝に伝える。その際、現在地の近くの「亥の杜」に遷座し、713年(和銅6年)に現在地に遷座したと伝えられる。

「亥の杜」と猪の神。
そして五十猛命は出雲神だとも考えられます。
そして白猪といえば伊吹神になります。

伊吹山の麓は、神功皇后の息長氏の本拠地です。
これも八幡神と関係あるのかもしれません。


どうも八幡神を探っていると伊吹神が現れてきました。
そして僕は伊吹神とは出雲の神だとも考えています。
これは、熊野とも関係していると思います。


宇佐神宮、出雲大社、熊野神社では、二礼四拍手一拝、
伊勢神宮では、八度拝八開手( やひらで:四拍手を2回繰り返す )が、正当とされています。


「ウサを見ろ」のメッセージがようやく少し解ってきたように思います。


長くなりました。
八幡神は、ほんと複雑で難しいです。
でも、最初は辛嶋氏の持ち込んだ五十猛命だったような気がします。
これが宇佐のアラハバキ神と習合されたのかもしれません。
そして、様々な思いが複雑に政治に利用されながら、今の形になったのではないでしょうか?

まだまだ、はっきりしませんが大きなガギを握っているのだと思います。

それから、八幡は、旗、秦、機の神でもあるので、この辺はまだまだ、考えないといけません。
そして、源氏の信仰と源平合戦の勝利を決定付けた熊野の勢力が絡まってきます。

なんとも複雑です。


おわり

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