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巡禮セレクション 60

 2016年08月27日(土)

京都の多賀と宇治の神明社

 奈良と京都を結ぶ地に、木津や城陽、宇治という土地があります。
このエリア、結構重要に思うのですが、歴史に埋もれているように思います。


このエリアに、JR山城多賀駅という駅があるのですが、多賀といえば伊勢天照大神の親神で、滋賀の多賀大社が有名です。
また、伊勢外宮には、豊受大御神荒御魂を祀る多賀宮が祀られています。
多賀宮は、外宮に所属する四別宮のうち、第一に位し、少し岡の高い場所に祀られています。
多賀は、高の意味があるようです。


さて、この多賀が京都にあるというのは、先日偶然、奈良と京都の間を地図で見ていて初めて知りました。
この地の由来は、そこにある高神社に関係ありそうです。

高神社、結構古い神社です。
多賀明神之社として奉祀、高村「大梵天王社 」と呼ばれて来た延喜式神名帳 式内社 山城国綴喜郡

所在地 京都府綴喜郡井手町多賀天王山1
御祭神 伊弉册命(いざなぎのみこと) 菊理姫命(きくりひめのみこと) 伊弉諾命(いざなみのみこと)高御産日命(タカミムスヒ)、

(相殿)伊弉諾尊(イザナギ)・素盞鳴尊(スサノヲ)--高神社本源記


創建 伝:欽明天皇元年(540)、東嶽に降臨、和銅4年(711)多賀明神之社として奉祀

歴史・由緒等

欽明天皇の元年、東嶽に降臨
和銅4年(711)多賀明神之社として奉祀
天平3(731)年 橘諸兄が詔を奉つてこれを高村に遷座した
同年 勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」とする
元慶2年(867)8月14日に龍神祭の争論で死者三郷社を一社に合祀することによって和睦
承久3年(1221)大乱の際に神託あり高神社を多賀神社と改める
寛元3年(1245)正一位
明治元年に神社制度の改正により大梵天王社「多賀神社」が現在の「高神社」となる
明治6年(1873)8月郷社


欽明元年(540年)におそらく多賀明神が東嶽に降臨したことが始まりのようです。

540年というと、
「新羅が任那地方を併合するという事件があり、物部尾輿などから大伴金村が、外交政策の失敗(先の任那4県の割譲時に百済側から賄賂を受け取ったことなど)を糾弾され失脚して隠居する。これ以後、大伴氏は衰退していった。」

大伴金村は、「武烈天皇8年(506年)武烈天皇の崩御により皇統は途絶えたが、応神天皇の玄孫とされる彦主人王の子を越前国から迎え継体天皇とし、以後安閑・宣化・欽明の各天皇に仕えた。」
この継体天皇の子が、欽明天皇で、欽明天皇は、蘇我稲目の娘と結婚します。蘇我氏繁栄の時代になるわけです。


この時代は、任那など朝鮮半島との関係が活発な時代だったようです。
「540年:大伴連金村、任那問題で失脚する。秦人・漢人の戸籍造る(紀)。

541年:百済の聖王(聖明王)、任那諸国の王、「日本府」、ともに任那の復興を協議する(紀)。

544年:百済・任那・「日本府」・再び任那の復興を協議する(紀)。

547年:百済、倭国へ救援を要請する(紀)。

548年:高句麗の陽原王、百済に侵入。百済、新羅に救援要請する。百済・新羅、高句麗を撃退する(『三国史記』)。倭国、百済に370人を送り、築城を助ける(紀)。「戊辰年五月」の紀年銘を持つ鉄刀が兵庫県養父郡八鹿町の箕谷2号墳から出土。


欽明元年(540年)だけを見ても、
「2月 百済人の己知部が帰化。(山村己知部の先祖) 倭国添上郡山村に住まわせる。 (欽明元年)

3月 蝦夷や隼人が帰化。

8月 高麗、百済、新羅、任那が遣使献貢職。
秦人や漢人の帰化者を国郡に住まわせ戸籍に編入した。
秦人の戸数は7053戸。 大蔵掾を秦伴造とした。」

帰化人が増え戸籍を作っています。
もしかすると、この多賀明神も帰化人の祖なのかもしれません。


高神社は、天王山に祀られていますが、天王とは牛頭天王のことで、つまり新羅由来の神ととらえることもできます。
多賀明神と牛頭天王は別だと思うのですが、渡来系の神として同一視したのかもしれません。


天平3(731)年 勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」とする

この時に、多賀明神は高皇産霊尊と同神となったと考えられます。
よって、多賀の字を高に変えたわけです。
面白いのは、元明天皇の御世、和銅6年(713年)5月に諸国郡郷名著好字令というのは発せられました。
これは、全国の地名を好字二文字で表すように発せられた勅令です。
713年に二文字化されたのに、高は地名ではないかもしれませんが、731年に好字二文字であるはずの、多賀が高一文字に変えられ、高神社となったのです。
この時代は、天平時代、聖武天皇の時代です。
奈良仏教が興隆し、720年に藤原不比等が死んだ後、不比等の子らや橘諸兄の時代になります。

実際、高神社も天平3(731)年に橘諸兄が詔を奉つてこれを高村に遷座されています。


この時に、多賀明神は変えられた可能性があると思います。
現代、多賀神というと、イザナギ、イザナミの天照大神の親神というのが一般的だと思います。
しかし、伊勢外宮では、豊受大神の荒魂が祀られています。
荒魂というのは、大概、名前を変えられていると思うので、その正体は、不明です。
確か、倭姫命世記では、この神は、気吹戸主だと書かれていたように記憶しています。

では、気吹戸主が多賀明神なのでしょうか?
外宮の神は、それでも良いと思うのですが、高神社はちょっと違うような気がします。
高神社は、いろいろ変遷しているように思います。
ただ、何か一貫していると思うのですが、それは父神ではないでしょうか?
牛頭天王と習合された素戔嗚命も、出雲系神々の父神と言えると思います。

そして、欽明元年(540年)に降臨した神は、伽耶人ではないのか・・・という印象があります。
これを後に、伽耶人→新羅人→牛頭天王→父神→高皇産霊尊→イザナギ・イザナミといった連想で神名が変えられたのだと想像します。


因みに、多賀、滋賀、伊賀、甲賀、加賀の賀は、賀茂の賀だという説があるようです。
実際、山城多賀の南6km位の処、木津には、加茂という地名があります。
すると、多賀は鴨氏に関係あるのか・・・もしくは秦氏に関係あるのか・・・という可能性もありますが、ちょっと混乱するので、保留としておきます。



さて、山城多賀から北へ7kmほどの地に、宇治の神明という地名があります。
この地には、神明皇大神宮が鎮座しており、これが地名の由来だと思われます。

神明社というのは、各地にありますが、これは伊勢神宮の神を勧請した神社という意味です。
つまり、神明社の神は、天照大神ということになります。

しかし、この宇治の神明社は、
「白鳳三年四月(674)天武天皇の詔により、栗子山に神殿を造営、市杵嶋比売命を祭神として神明神社と称えられたのが起源とされる。
桓武天皇延暦十三年(794)都を平安京に遷され、当地が都の巽に当たるので伊勢皇大神宮を勧請この地を宇治と号し屡々行幸された。」

天武天皇といえば、伊勢神宮を皇祖神に改造しはじめた天皇です。
この天武天皇の詔により宇治の神明神社が祀られてわけですが、その祭神は、市杵嶋比売命でした。
伊勢神宮から勧請したのに、その神は、市杵嶋比売命だということは、伊勢神宮の神は、天武時代は、天照大神ではなくて、市杵嶋比売命だったという理屈になります。
そうなると、市杵嶋比売命の父神は、素戔嗚命なので、多賀明神は、素戔嗚命だとも考えられ、高神社が天王山に鎮座しているのもうなずけます。


しかし、市杵嶋比売命は弁財天の別名でもあり、弁財天は、瀬織津姫の別名でもあります。
よって、天武天皇時代の伊勢神宮の神は、瀬織津姫だったという話で良いと思います。


結論を言うと、多賀明神とは、伽耶人の祖神として元々は祀られました。
しかし、伊勢神宮の天照大神創作以前の女神は、瀬織津姫(市杵嶋姫命)で、その父神として素戔嗚命を多賀明神と認識されていたが、天照大神創作につき、伊勢の天照大神(元・市杵嶋姫命)の父を素戔嗚命として認めるわけにもいかない、なぜなら、天照大神と素戔嗚命は、姉妹であり、五男三女を生んだカップルでもあるわけです。
このカップルという対比において、瀬織津姫と気吹戸主の対から、外宮の多賀宮は気吹戸主命が祀られていたのかもしれません。ただし、この気吹戸主命も元の神は、幸神の一神だと思います。
ということで、山城の多賀明神は、牛頭天王や、高皇産霊尊、イザナギ・イザナミへと変遷していったのだと思います。
が、なぜここに、多賀明神という名で祀ったのかは、不明です。
僕の想像は間違っており、伽耶とは関係ないのかもしれません。
大伽耶→多伽耶→多伽→多賀というのは、無いでしょうか・・・・


神明皇大神宮の由緒には、
平安京に遷された時、当地が都の巽に当たるので伊勢皇大神宮を勧請この地を宇治と号し屡々行幸された。とあります。
つまり、794年以降、伊勢の宇治にならって、この京都の地に宇治と名付けられたという理屈になります。
僕は、伊勢の宇治と京都の宇治の名が気になっていたのですが、これによると伊勢が元だということになります。

伊勢市の「宇治」は奈良時代から宇治郷と呼ばれ、伊勢神宮の『御鎮座伝記裏文書・大神宮本記』には、古く「宇遅」や「有地」とも記したことが分かります。
地名の由来に関しては、『伊勢国風土記』逸文に――
「天照大神の鎮座以後、“内(うち)”と称し、のちに“宇治”に転訛した」とあります。


やはり伊勢が元なのかもしれませんが、京都の宇治は、794年以降ということになっていますが、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)という応神天皇の皇子がいましたから、菟道(うじ)の地名は、平安京以前にもあったと考えられそうですね。

かなり複雑なので、多賀のテーマは、まだまだ整理しないといけませんね。

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