新しい観光業のかたち(コラム②)
変わりゆく社会の中における文化と記憶の大切さ
僕は、昨年、観光業は国を滅ぼす「下の策」と書いた。労働集約で安易な打ち手だと。京都も10年にわたって歴史ある町屋の安易な改装でゲストハウスを建ててきた。それらはコロナ禍でアジアからの旅行者がいなくなると同時に潰れていった。次は失敗はゆるされない。新しい観光業の形を必ず成功させなければならない。しなやかに、そして京都らしくしたたかに...。なんといっても外国人観光客の 3 割が京都を目当てに訪日するのだ。
観光庁の定める富裕層の定義は、1 回の旅行で100万円以上使う人だそうだが、欧州から極東日本にやってくる観光客は 10 日は滞在する。すると夫婦と子供の 3 人で計算すると1日30,000円はまったく高いとは言えない。富裕層とは1,000万円使う層のこととまずは再定義し直さねばならない。富裕層に向けたハイエンド・ハイマージンの体験提供こそが京都の財政難と文化都市の継承を支える最初の一手である。だがこれは慣習上簡単ではない。
日本は、古来より二重経済であり、その通貨として、米(石)とカネ(両)の2つの経済が存在した。前者は生活経済を共に支えるために存在し、後者は資本投下による大規模改革に使われる。
つまり、日本ではコミュニズムとキャピタリズムが歴史的に同居している。安倍政権の間だけで 4.5 倍にも膨らんだ円の量(マネタリーベース)でインフレが起こらないのは、吉野家の牛丼もニトリも前者の生活経済に立脚しているからだ。一方で刷られたものの行き場を失ったカネは株や不動産へ流れるから株価は暴騰するのである。
京都における観光戦略の第一歩は、京都での生活経済と観光業におけるキャピタリズムを切り離すことだ。 都市を支えるのは数百億から数兆円の産業であり、それらは二重経済の上の層、つまりキャピタリズムに属する。はばからずに言えば、コロナ後の観光業は、薄利多売のゲストハウス型から、高い利益率を取れる高付加価値産業に絞り込まなければならない。生活経済から発想すれば 1 泊 20〜30 万円と聞けば引いてしまうが、富裕層にとっては濃密な時間を楽しむために万金を使うのは痛くない。価値を決めるのは相手であ り、その受け取る価格は提供者に誇りと規律をもたらす。そして生まれる利潤は文化承継への財産となる。
京都は新しい観光業の姿を今必死に模索している。産業は変わりゆく。しかし決して変えてはいけないものがある。それが文化であり記憶である。もしくは身体知で承継される産業基盤である。その全てが京都の土地にたたみ込まれていることを我々日本人全て忘れてはならない。
2021年にオリンピックは終わったが、その裏で静かに行われ、じわじわと日本が順位を下げている国際技能オリンピックの行方の方がわたしは心配である。