2021年7月3日の近況報告 植松! お前は神にでもなったつもりか!? ~人が人を裁くという事~
相模原障害者施設殺傷事件で、植松死刑囚が19人を殺してから今月で5年になる。もう5年が過ぎようとしている。
思い返しただけでも胸糞が悪くなる事件だが個人的には「植松! お前は神にでもなったつもりか!?」と言いたい。
人を裁くのは古くは神の仕事だった。今ではそれよりも誤審が少ない法律という「人間が社会を送る上でつちかわれた膨大な集合知」を身に着けた裁判官の仕事だ。
「人を裁く」というのは裁かれた人の人生を全くの別物に変えてしまうほどの非常に重い事であるため「誤審が起こらないように」徹底的にその可能性を排するようになっている。
1回の法廷は基本的には3人の裁判官(地方裁判所なら6人の裁判員が加わるし裁判官が1人の事例もある)が参加し、最高裁判所に至っては14人の判事と長官1人という15人体制で行われる。
それに裁判は地方及び家庭裁判所の1回目、高等裁判所の2回目、最高裁判所の3回目とやろうと思えば3回戦あり、しかも場合によっては差し戻しでやり直しというのもある。
しかし植松は「たった1人」で「役に立たない障害者に税金を投入すのは無駄なので殺せば経済が回る」という法を完全に無視した独善極まる理由で19人もの人間を殺した。
俺は特定の神を信じてはいないが、これは「神に対する冒とく」と言える。
1983年に横浜の中学生が浮浪者、今でいうホームレスを殺したのを「横浜をキレイするためのゴミ掃除をしただけ」って言うのと同じくらいのおぞましさだろう。
膨大な法律の知識を身に着けた裁判官ですら3人、最高裁に至っては15人が集まって罪を審議するというのに、知識も資格も無いただの凡人である人間1人に、なぜ「役に立つ」「役に立たない」という定義が出来るんだ?
「有罪か無罪か」と人を裁くのは今では人の仕事だが、それ以前の「役に立つ」「役に立たない」これを決めるのは今でも神様の仕事だ。
繰り返しになるが「お前は神にでもなったつもりなのか!? 植松!?」とは言いたい。
この手の事件は「誰もが植松になる可能性を秘めている」という話になりがちだがが、個人的にはそうではない。
繰り返しになるが「人の役に立つ、役に立たない」を決めるのは「科学技術が発展した現代においても」神様の仕事であり、人間ごときにそれを決めることなど到底出来ない。
それは「神に対する冒とく」だと声を大にして言いたい。
最後にとある司祭の言葉で締めくくらせていただきたい。
貧しい人 病人 非生産的な人 いてあたりまえだ
私たちは他者から生産的であると認められたときだけ生きる権利があるというのか
非生産的な市民を殺してもいいという原則ができ 実行されるならば
我々が老いて弱ったとき 我々も殺されるだろう
非生産的な市民を殺してよいとするならば
いま 弱者として標的にされている精神病者だけでなく
非生産的な人 病人 傷病兵
仕事で体が不自由になった人すべて
老いて弱ったときの私たちすべてを
殺すことが許されるだろう
- クレメンス・アウグスト・フォン・ガーレン司祭
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