【長編小説】 初夏の追想 2
――それは、人里離れた山の奥にひっそりと建っている、かつての別荘だった。
いまではすっかり寂れて人影もなくなってしまったこの土地は、高く伸びた草叢に侘しく埋もれていた。
当時、ここは有数のリゾート地で、多くの別荘が点在していた。暑い時期になると財界人や文化人、芸術家などが訪れた。彼らは多種多様なモザイクのようにここの景観の中に華を添え、そのひと夏に鮮やかな色彩をもたらしていたものだった。
そんな人々の残像を車の窓から懐かしみながら、私は山を上っていった。その別荘の建物は山の中腹辺りに位置し、車道から折れて中に入っていく砂利道の私道をを少し入ったところにあった。
ひっそりと静まった細い道をゆっくり進んでいくと、タイヤが砂利を踏む音だけがやけに浮き立って聞こえた。道の両脇に沿って等間隔に植えられていた杉の木は、この歳月のあいだに大きく成長していて、その下を通る者に薄暗い影を落とし、トンネルのような効果を上げている。しばらくすると、目の前にその建物が姿を現した。
――別荘は、私の危惧にもかかわらず、昔と寸分たがわぬ姿で建っていた。まるで、そこだけが時間の流れに与するのを拒み続けていたかのように……。
庭は長いこと手入れされなかったために、雑草が茫々と伸び、荒れ放題に荒れていた。片隅に立つ天使の彫像の足もとに、いつできたものか、不吉な黒ずみが残されている。
私はその黒ずみを訝し気に見ながら玄関に近づき、不動産会社で受け取ってきた鍵を使って重い扉を開け、中に入った。ギイイ……と、軋んだ音を立てて扉は開き、家は私を中に招き入れた。
一歩足を踏み入れた途端、私は昔の匂いを嗅いだ。三十年来、入れ替わることのなかった空気である。
その埃っぽい空気は、絨毯や家具の匂いを取り込んで膨張し、長年の密閉によって濃密さを増した暗がりは、玄関ホールの片隅で密やかにたゆとうていた。そしてそのせいか、そこには彼らの面影もぼんやりと佇んでいるように見えた。
「ああ……。もう三十年にもなるのか……」
私は呟きながら扉を閉め、奥の客間のほうへ歩を進めた。歩くたびに、白っぽい埃が菌類の胞子のように舞い上がった。私はいま、この建物の三十年間の沈黙を破っているのだ。
客間の中も、かつての佇まいをそのまま残していた。私は三人掛けのソファに腰を下ろし、ゆっくりと辺りを見回した。正面に威厳一杯に据えられている暖炉、マホガニーのマントルピース。私はわざとカーテンを開けなかった。
午後だというのに、厚いカーテンは日光を遮り、部屋の内部と外界とを、完全に遮断していた。そのせいで、部屋全体は澱んだ薄い闇に満たされ、すべての物音は、毛足の長い絨毯に吸い込まれていた。
――そこでは、白昼夢のように、現実には有るはずのないものさえも見えるような気がされた。
私は目を閉じ、肺に溜められるだけ一杯に空気を吸い込んだ。
すると、懐かしい匂いともに、三十年のあいだ蓄積された思い出たちが、ひと息に私の中へ流れ込んできた。そして、あのころの出来事すべてが、頭の中に、生き生きと、まるで手で触れることができそうなほど鮮やかに蘇った。彼らの顔、声、話し合う言葉、そして、この家の中にいた人々のさざめきやさまざまな場面が、刹那、私の脳裏を直撃し、そしてあっという間に行き過ぎていった。
私は無意識に、それを捕らえようとして手を伸ばした。が、目を開けてみると、彼らは真昼の闇の中に消え去ってしまっていた。まるで、人間をあざ笑う魑魅魍魎のように、その気配の片鱗だけを残して。
私は当面の生活に必要な身の回りの荷物だけを運び込むと、建物の一室の書斎に籠った。そこには緑色の絨毯が敷かれ、木製の重厚な仕事机と座り心地のいい椅子がしつらえられていた。壁一面は造りつけの本棚になっており、そのすべてを埋め尽くした私には理解できそうにない多くの難解な書物は、この建物に流れる長い時間の証人であるかのようにそこに沈黙していた。
私は仕事机に座り、その上に携えてきた小さな万年筆とA4版の原稿用紙を置いた。そして、仕事にとりかかった。
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