【短編小説】 隣のメキシコ人の男
――名前は何だっけ? フランコ? カルロス? フランチェスコ?
スキンヘッドの小柄な人だった。けれど髭を生やしていて、確かバツイチでまだ小さい娘がいた。色々あったことのせいで、彼に対してはあまりいいイメージがない。
三日間考え続けて、やっと思い出した。
アルベルトだ。
モントリオールのプラトーで、私達のアパートの隣に住んでいたメキシコ人。まだ若いのに、持ち家に住んでいた。
彼は坂をかなり下って行ったParc La Fontaineより下の地区にアパートをひとつ買って、B&Bを経営していた。しばらくの間……多分、ひと夏と記憶しているのだが、ひと夏と言えるほどの長さであったか自信が無い。
アルベルトは、メキシコ人の陽気なイメージとは裏腹に、コワモテでつっけんどんな男だった。隣に住む彼とテオはよく建物の前で世間話をしているようだったが、私は直に接したことは無かった。あまり笑わない彼は取っつきにくい気難し屋といった感じで、テオが「ちょっと怖い」と表現していたこともあって、何となく避けているようなところもあったのだ。
でも、テオと話す彼の様子をアパートの窓越しに見かけた時、彼のその厳しい表情は、その先の人生に厳しく立ち向かっていこうとしている表れのように思われた。
私は彼の経営するB&Bで、ほんの少しの間働いたことがある。
ほんの少しの間。しかもその仕事はグダグダだった。
多分2、3回? 4回は行ったのかな。とにかく、以降、行かなくなった。
アルベルトのB&Bは、通りに面していて日当たりが良く、1階から2階にかけてたくさんの観葉植物を飾っていた。1階の一番奥に窓のついた小さなキッチンがあり、その手前の左手の壁には階段の下になっている大きなくぼみがあって、ランドリー設備がはめ込まれていた。左に洗濯機、右に乾燥機。どちらも家庭用ではない大型のものだった。
その左手、入口を入ってすぐのところに2階に続く階段があり、客はその階段を上って客室に入る。
朝6時とか6時半とかに、私は自転車でアルベルトのB&Bまで下って行った。とにかく朝のとても早い時間で、寝坊助の私には本当を言うと苦行だった。
けれど、自分で言い出したからには頑張るしかない。テオの世話になりっぱなしの生活を続けていた私は、この国で何か出来る仕事を見つけたいと思っていた。アルベルトが手伝いを探していると聞いて、やらせて欲しいと申し出たのは、テオに対して自立出来るというアピールをしたかったからかもしれない。
B&Bに着くと、玄関の横にある自転車停めの鉄パイプに自転車をU字型のごつい鍵でくくりつける。
朝はまだ、客が部屋から降りて来ない間はあまりすることも無い。私は手持無沙汰で、観葉植物に水をやったりしていた。
ともあれ、朝の仕事の手順はというと……。まずは、コーヒーの準備。コーヒーマシンの操作はアルベルトが教えてくれた。
それから台所に入って、トーストの用意。全粒粉のものと、白いタイプを並べて専用の平たい籠に入れる。
それからチーズを切る。
このチーズを切る作業が、私にとっては難問だった。
アルベルトはなぜかカッティングボードというものを持たなかったので、左手でチーズを持って、右手に持ったナイフで器用に切っていかなければならなかった。彼は以前ホテルで働いていた経験があるということで(きっと厨房なのだろう)、慣れた手つきでまっすぐ綺麗にチーズを切っていくのだが、私が同じことをやろうとすると、どうしても歪んだ汚い形のチーズになってしまうのだった。それを見てアルベルトは苦い顔をした。
接客もまた、私はなかなか上手く出来なかった。
客への接し方については、アルベルトは「特に何もしなくていい」というスタンスだった。ホテルではないのだし、プロフェッショナルなサービスは提供しなくてもいいという考えのようで、マニュアルも無く彼からの具体的な指示も無かった。
「朝お客さんが下りてきたらコーヒーを出して。あとたまに、『今日の天気は?』とか聞かれるからそれに答えられるようにしておいてくれたらいい」
と、アルベルトは言った。
ある日、ひとりの男性客が早めに2階から降りてきた。グッド・モーニング、とかボンジュールとか。挨拶を交わす。
まだ慣れていなかった私はとりあえず感じよくしようとニコニコして彼の座る椅子の前のソファに座った。おそらくだが、彼が何か言いつけてくれるのを待っていたのだと思う。
けれど客は、新聞を広げて眺めていて、いつまで待ってもオーダー的なことを言ってくれない。
そうする内、奥の台所の方からアルベルトが叫んだ。
「コーヒーだよ、ヤングレディ!」
あっ! ゴメンごめん……すみません!
私は慌てて男性客に、「Would you like a cup of coffee? 」と尋ね、「Yes, please」と微笑み交じりの返事をもらい、台所にダッシュしてコーヒーを入れ、給仕をした。
こっちから聞かなければならなかったのだ。
慣れていないということもあったが、接客のやり方というものを全く理解していなかった私は、恥と冷や汗を同時にかいた。
アルベルトは、食器洗い用スポンジがちょうど収まるくらいの厚みの陶器の皿に水を張り、それに洗剤を1,2滴垂らした程度の薄い石鹸液を作って皿を洗っていた。液は極限まで薄められていて、スポンジはこれまた極限まで薄っぺらだった。
どケチなのか、男やもめだからスポンジを換えるタイミングもわからないのか、娘の教育とか生活の細々としたこととかのせいで気が回らないのか、それともメキシコではこれが普通なのだろうか……などと色々考えた。
暑い夏の日々だった。私はTシャツかタンクトップにデニムのショートパンツという恰好で、アルベルトのB&Bに通っていた。その上に何か羽織っていたかどうかは、記憶にない。
アルベルトには、頭髪が無かった。テオがスキンヘッドと言っていた通り、日本語で言うところの、ホントの〝つるっぱげ〟だった。でもカナ子さんの夫のマチューのように、ストレスによる病気で体毛が無くなったというわけではなさそうだった。マチューは見事に眉毛も髭も無かった(モントリオールの豪快マダムの域に達しているカナ子さんは、「チ〇チ〇の毛も無い」と笑いながらテオに言ったらしい)が、アルベルトには黒い眉毛と髭があったから(チ〇チ〇の毛までは、私のチェック出来る範疇に無い事柄のため知らないのだが)。
ともあれ、私はつるっぱげの人を、初めてリアルに見た。アルベルトはメキシコ人らしくなく色白だったので、額から頭頂部にかけて、後ろ頭に至るまで全体的に白っぽかった。そして、彼が頭を人工的に剃り上げて坊主頭にしているのではないということは、その皮膚の状態を見てわかるのだった。
彼の頭には、伸びかけの短い毛や産毛はおろか、毛根さえ見当たらなかった。眉毛や髭の色が黒いことから、もし彼に毛根が残っていれば、僅かにうっすら黒っぽい点でも見えそうなものだが、そういったものの気配さえも、どうやらうかがえなかった。……もう少し頭皮に近づいて、仔細に眺められれば、あるいは細かい毛穴からポツポツと生え出ようとしている髪の毛の〝素〟のようなものを認めることも出来たのかもしれないが、私にはどうしてもそう出来ない理由があった。
私は彼の、頭皮のニオイを嗅いでしまったのだ。
嗅ごうとしてわざと嗅いだのではない。けれど何かの拍子に互いの体が近づいた時、空気の流れの方向性によって全く不意にそのニオイが私の鼻の中に入ってきてしまったという感じだった。
その瞬間、私の中に大きな衝撃が走った。
これまでに、人の頭の匂いを感じるという経験が無かったわけではない。汗かきの男性であったり、毎日頭を洗う習慣の無い人の不衛生な匂い、風邪をひいてお風呂に入れなかったりして自分がそういう状態であった時の、自らの匂い……。
けれどそれらは全て、髪の毛のフィルターを通しての、言わば間接的な匂いだった。髪の毛に覆われていない、〝むき出し〟のアタマのニオイを、私はその時初めて嗅いだのだった。
暑い日が続いていて、アルベルトも汗をかいていた。そのため、それは彼の体から余計に多く発散されていたのだと思う。
生の、直接の、裸の頭皮の匂い。
それはその時の私にとって、まるで性器を目の当たりに見せつけられたかのような、強烈なインパクトだった。それはあまりにも生々し過ぎ、それゆえ私は学舎の中で教師に猥褻な行為を仕掛けられた女子生徒さながらの、不穏な情緒を覚えたほどだった。
アルベルトに罪は無い。彼はぶっきらぼうではあったけれど基本的には優しかったし、ひとり親で小さな娘を育てている苦労人である上、単なる生真面目な常識人だった。
最後にちょっと不愉快なことをしてくれたぐらいで、あそこを辞めたのは完全に私の方の身勝手だった。最初から給料はあんまり多く出せないと言っていたとテオから聞いていたし、半日働いて15ドルというのも、まあ私のお粗末な仕事ぶりの査定の結果だったと考えれば、文句を言える立場でもない。実際生活がかかっていたわけでもないのだし、それはそれで納得出来ることではあった。
けれど、あの時彼がポケットから直接出して渡してきた悲しくなるほどくちゃくちゃの15ドル札と、嗅いでしまったあの〝生身の匂い〟の記憶とが、再びあのB&Bに自転車を漕いで行こうという私の気持ちを、いくらか萎えさせてしまったのは事実だった。
私はその後、幾度か「来れるか?」という電話がかかってきても、もうアルベルトのB&Bに行くことは無かった。
それから1~2年して、アルベルトはそのB&Bを売ったと聞いた。
その後彼も再婚して、隣の家に新しい奥さんと一緒に住んでいたらしいけれど、詳しくは知らない。