【短編小説】微かな恐怖 真夜中
卓上の置時計が、11時59分を指していた。
もうすぐ午前0時。宵の口と呼ばれる時間帯から、本当の夜へと移ろう時間だ。
何かが始まるにはうってつけの時刻だと、私は思った。時計の針が恭しく合掌して、ずっと以前から待たれていた、その特別な一瞬を刻む。するとそれを境にして、まるで魔法のように、私の体じゅうの感覚はしびれ、そのすべての機能を停止する。目の前がぼやけ、自分のすぐ前にあるものですら、何なのか判別できなくなる。
眼球のずっと後ろのほうで、無数の白いアブクのようなものが、細胞が分裂していくときのような、細かい振動を繰り返している。
私は、自分を空っぽの筒のような存在だと感じる。
筒は部屋の中のある空間を見ている。そこでは何かが起こっている。筒は、見えない目で、白いアブクを通して、その光景を見続けている。
部屋の中では、何かが目まぐるしく回っている。それは、空気の流れのようでもあり、影のようでもある。やがてそれはこちらに近づき、筒である私の周りを取り囲むようにして回り始める。
すると、白いアブクは消え去り、今度は何か恐ろしく不快な音が聴こえ出す。キュルキュルと、まるで下手なバイオリンの音色のような、引き裂くようなその音は、1テンポずつ速くなって、それに合わせて周りを回る何かの回転も速くなる。音は悲鳴のようにそのヒステリックさを増してゆき、それが刷りガラスを引っ掻くような音に変わるころには、今度は部屋全体がものすごいスピードで回り始める――――――――。
ここで、突然、真っ暗闇の空白が訪れる。映画であるシーンから次のシーンへ移るときに使われる暗転の手法、あれと同じくらいの長さの時間だ。音の無い、一瞬気を抜かれるその暗さのあと、すぐに、今度は白い本物の空白が訪れる――――。
私はふっと自分を取り戻す。そして目の前を見る。テレビが目の高さにあることで、自分が身を起こしたまま床の上にじかに座っているということを認識する。
眠っていた?
――いいや、全然、眠くなんかならなかった。ちゃんと座っているし……。
じゃあ、気を失っていた?
――そんなつもりもない。だってたった今我に返ったのに、意識はこんなにもはっきりしている。
――何なのだろう、今私が陥ったものは――。
腑に落ちない気分で、無意識にデスクの上を見る。置時計は、午前0時10秒を指していた。
不思議と、怖くはなかった。確かに、不快な音やあの何かが回るときの速さには恐怖を感じたけれど、ただ、たった10秒間の間にあの出来事が起こったのか、ということに、少し驚いただけだ。それに、今ここにいる私は、冷や汗もかいていなければ、顔が上気しているわけでもない。10時半にお風呂に入って、11時10分にお風呂から出たそのときのまま、実にさっぱりしている。むしろ体温は冷めているくらいだ。つい何秒か前に起こった(はずの)出来事を、私は今はっきりと思い出せるし、順序立てて紙に書くことだってできる。なのに、この部屋は何ひとつ変わっていないし、私も依然として私自身のままだ。
そして、時計は何ごとも無かったように、平然と時を刻み続けている……。
私は呆然としたまま考えた。自分は少しおかしくなっているのではないだろうか? 確かに毎日の暮らしの中で、ストレスは多い。世の中は、思い通りにいかないことで満ちている。でも、だからといって、私だけ特に他の人たちと違う、ということもないだろうけど……。
今、この世の中に生きている人で、ストレスを感じていない人なんて、いるわけがないもの。
でも、考えてみると……。
精神に異常を来すときは、初めはこういう小さな体験から入っていくのかもしれない……。今にこんなことが日に2、3回のペースで起こるようになり、段々とエスカレートして、それが起こらない間の間隔が狭くなり、気がついたときにはもう遅く、完全にそちらの世界の人間になっているのだ。
――そんなことまで考えながら、私は、少しも何も感じなかった。私の頭がおかしくなる。言うことも行動も、社会の規範にそぐわなくなって、やがて社会から見捨てられ、どうしようもなく不安な真空に放り出される……。精神科の病院にでも入れてもらえれば御の字だ、という状態になるのかもしれない。
……でも、それが何だというのだ?
もし仮にそんなことになったとしても、私は嘆かないのではないかと思う。現実的に、家族や病院で私を世話しなければならない人々に対しては申し訳ないと思うことはできるが、それ以外に悲しいことなんて何も無い。そのころにはもう、自分を顧みる能力さえ失われてしまっているからだろう……などということではなく、ただ、社会適合者から社会不適合者への一歩を踏み出すか踏み出さないか、人間なら誰でも常にそのボーダーライン上を行ったり来たりしているはずだと思うからだ。
それに、さっき私が体験した(と思った)あの刹那的な出来事も、自分が知らないだけで、もしかしたら毎日のように多くの人の身に起こっていることかもしれないではないか。
誰もが、それぞれに、ちょっとした納得のいかないことや、人には説明のできないような出来事に遭遇しながらも、まあいいや、うまく説明できるとは限らないし、例えできたとしても誰も信じてくれないだろう、などと考えて、曖昧にやりすごしているのが、今私を取り巻いている社会だとしても、ちっとも不思議ではないような気がするのだ。
だから私は、その真夜中の体験を、誰にも言わないことにした。そしてバスルームに行って歯を磨き、化粧水で顔を叩いてから乳液をつけ、ベッドにもぐり込んだ。
目覚まし時計のデジタルは、0時15分を指していた。