【長編小説】 ヒジュラ -邂逅の街- 11
イマームの大巡礼の随行者の名前が発表されたのは、私たちが署名と嘆願書を提出した五日後のことだった。それは何と巡礼へ出発しなければならない前日のことだった。
あとになってわかったことだが、審議会は大揺れだったらしい。議長を兼任する市長は、署名と嘆願書を皆に示し、最初から“闇夜”を選出する流れで会議を進行しようとしたが、審議員のなかに何人か、身内に応募者がいる者がいて、是が非でも自分の身内を選出させようとしてそれに反対していた。何しろイマームの大巡礼である。それに付き従って行ったとなれば、間違いなくのちのちの代まで一族の誇りとなる。道中の土産話は語り草にもなるだろう。それだけに彼らは頑なに譲ろうとはしなかった。
そうやって三日が無為に過ぎた。四日目、議会室の空気がピリピリしていたところに、何とイマームが現れた。そして、話し合いが膠着状態に陥っている理由を問い正すと、しばしの沈黙のあとに、こう言ったという。
「“闇夜”か。彼女は一番先に連れていかなければならない。私は最初から頭数に入れていたつもりだったが……」
このひと言がすべてだった。“闇夜”の巡礼行は決定した。イマームのご意向であるから、誰も文句を言うことはできない。しかもそのあと、困窮者を救うことの価値についてイマーム自らが懇々と説教を施されたので、納得のいかない顔をしていた議員たちも、最後には感銘を受け、“闇夜”を快く送り出してやろうと思うまでになった。
随行者の名前が会議所の前の壁に貼り出された日、私は大急ぎで“闇夜”のところに走り込んだ。覚悟を決めたように身を固くしてベッドにうずくまっていた彼女は、私の知らせを聞くと、天を仰ぎ見て涙を流した。そして改めて、私を抱き締めた。
「ありがとう」
私を真っすぐに見てそう言った“闇夜”の眼からは、月の光が落とした青色の影は消えていた。月の魔力が解けたように、その瞳は強い輝きを取り戻し、生きた人間の夢や希望を映し出していた。
――その夜、大急ぎで“闇夜”の壮行会が準備された。会場はもちろん、宿屋エスメラルダの大食堂。“枯れ谷”から来た蜂蜜売りの親子、ハシムさんとナディル、それに“闇夜”のあとを手伝ってくれていた女将の姪であるザイナブも招待されていた。“闇夜”はひとりひとりに、迷惑をかけたことを詫び、感謝の言葉を述べて回った。今夜の彼女は、髪の毛は隠していたが、顔は出していた。人々は初めて見る彼女の顔立ちの美しいことに驚き、溜め息をついた。
ナディルのところへ行ったとき、反対に彼は“闇夜”に向かって早口でずっと何かまくし立てていた。それを聞いていたハシムさんが、こっそり教えてくれた。
「盛んに励ましているな。礼なんていいから、道中気をつけて行ってこい、とか、誰にも引け目を感じるな、堂々としていろ、とか言っている……。あああ、何を言ってるんだ、あいつは……。肝心なことは何ひとつ喋れてないじゃないか。顔を出した“闇夜”があまりにも美しいので、しどろもどろになっているんだな」
ハシムさんは笑った。私もナディルの様子がおかしくて、つい笑ってしまった。
でも、彼は真剣だった。その眼には恋に落ちた者に宿る独特の熱が籠もっていた。“闇夜”もそれに反応して、少しずつではあるが、心を許したような微笑みを彼に与え始めたように見えた。
――宴もたけなわになったころ、ひょっこりと市長が現れた。“闇夜”は声を上げて立ち上がり、急いで駆け寄った。
「サプライズゲストだよ!」
女将が陽気な声で叫んだ。
「いや……。遅れてすまなかった」
市長は言った。女将に招待されて、執務を終えるとすぐに駆けつけたのだそうだ。
「恩人……。私の命の恩人です」
“闇夜”は言った。
――実際、彼女がこの街に入ったとき、市長は住民に対して彼女の犯した罪を公表することもできたはずだった。すべてつまびらかにした上で、住民たちに判断を任せるということだ。だが、市長はそうしなかった。彼はこの街の人々を知り抜いていたので、もしそうすれば、彼らは問答無用で彼女を戒律の下に“裁こう”とするだろうことをわかっていた。彼女を生まれ故郷の街に送り返すようなことだってしかねない。……彼女の行為は確かに戒律に背くものかもしれない。けれど、彼女はただ、愛する人を自分で見つけただけなのだ。これがそこまで罰せられなければならない行為だろうか? “闇夜”の心情を唯一知っていた市長には疑問が浮かび、彼女を憐れに思った。だからあえて公表はせず、避難者を保護するという街のしきたりを盾にして、たとえ住民たちの噂が暴走することになっても、彼らを煙に巻くほうを選んだのだった。
「まあ、あとは長老会議がいい流れになってくれてね。助かったよ」
市長は微笑みながら言った。そして、肩の荷が下りてほっとしたような表情で“闇夜”を見つめ、こう言った。
「この際だから、君の身に起こったことを皆さんに聞いてもらったらどうだい」
“闇夜”は、市長が数年来守り続けてくれた“秘密”を、自らの言葉で語り始めた。
……皆、じっと彼女の話に聞き入っていた。彼女がこの街に辿り着くまでの出来事を知っていくうちに、一同は、彼女が、黒いベールの下に隠れて暮らしている顔のない女ではなくて、ちゃんと故郷も実家もある生身の女性であるということを実感していった。
「“闇夜”、君の本当の名前は何というの?」
話に夢中になっていた我々のあいだの誰かから、こんな声が上がった。“闇夜”は、うつむきながら微笑んで、自分の名前を明かした。彼女の名は、アイーシャ・ローズといった。
拍手喝采が起こった。皆、眠りから醒めたような気持ちになった。
誰もが満ち足りた気分で、壮行会はお開きになった。ナディルはアイーシャを送っていった。
――食卓から皿を引き上げ、片付けを手伝っているときに、私はふとあることに気づいてしまった。
“枯れ谷”から来た少年、無邪気な兄弟の兄のほう、サーレムが、食卓の向こうから、じっと私を見つめていることに。――その瞳には、先刻ナディルの眼に浮かんでいた、彼がアイーシャを見つめるときのものと同じ熱が籠もっていた。
……少年は、いつ恋に落ちたのだろう。巡礼の件でずっと気を揉んでいて、まったく気づいていなかった。あの、月の夜だろうか。そうかもしれなかった。少年の純粋な心は、あの青白い月のシャワーの下で過ごした親密な時間を、大切に記憶に刻んだのだ。
夜が明けて、アイーシャを含めたイマームの巡礼の一行が出発するのを城門で見送った。そこには街の住人のほとんどが駆けつけ、門前の通りが人で埋まるほどだった。
――帰ってくるとき、彼女はもう“闇夜”ではない。誰もが彼女を本来の名前で呼び、尊敬するだろう。彼女は大巡礼を終えた高潔な人物となり、人生を取り戻すのだ。
巡礼の出発を見送る人の群れのなかでも、サーレムの視線は感じられた。父と弟のあいだに立ち、人々の歓声や旅立つ家族に呼びかける声などをかいくぐって、少年の眼差しはずっと私をとらえていた。それは夕べよりももっと熱い熱を籠めていて、私は戸惑いを隠せなかった。努力して、普通を装い、笑いかけてみた。少年は一瞬、いつも見せていた罪のない笑顔になったが、またすぐに、想いを胸に秘めたひとりの男の顔に戻った。私は、心がざわざわするのを感じた。子供だとばかり思っていたサーレムへの見方が、突然変わった瞬間だった。