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【長編小説】 抑留者 2

 朝七時。尚文は自分の居室を出て、母屋の分棟と本棟をつなぐ内廊下をのそのそと歩く。洗面所で顔を洗っていると、台所のほうから焼いた干物と味噌汁の匂いが漂ってくる。
「あ、おはよう」
 尚文が台所に入ってきた気配に気づいて振り返った時絵ときえは、慌てて動作のピッチを上げた。テーブルの上に置いた長方形の盆に、すばやく二人分のご飯と味噌汁の椀を並べる。色黒の骨張った手が、毎朝の仕事をテキパキとこなしていく。
 時絵は浦の言葉で〝じゃんがね〟と呼ばれる、痩せてはいるがめっぽう丈夫な体を持つ女で、実際、鉄雄と結婚して以来病気ひとつしたことがなかった。だがその代わりというかのように神経が細く、気が利くがゆえに色々と取り越し苦労をして精神的に参ってしまうようなタイプだった。
「今日は焼き魚がないけん、干物にしたけ。じいちゃんによう言うとってな」
 時絵は気まずそうな顔をして、干物より焼き魚を好む祖父がおかずを不満に思わぬよう、尚文に仲介を頼んだ。ただでさえギクシャクしている仲なので、嫁として必要以上に気を遣ってしまうようだ。
「わかった」
 言葉少なに返事をすると、尚文はテーブルから盆を取り上げてきびすを返した。
 そのまま玄関の三和土たたきにあるサンダルを引っかけ、肘で引き戸を開けて外に出る。それから振り返るような格好で百八十度ターンすると、家の側壁に沿って裏に回り、祖父の住む小屋に向かう。横の駐車スペースに停めてある兄の車はもうなかった。今朝は早くから漁に出ていったらしい。
 朝食は毎日、味噌汁に焼いた魚、白いご飯に漬け物といった判で押したようなメニューだった。祖父がそのオーソドックスな和食に強いこだわりを見せたからであったが、尚文としては、たまには涼太が食べているようなパンに目玉焼きといったものも楽しみたかった。けれど祖父と顔を合わせて食べる以上、何となく自分だけ別のものをというのはためらわれ、また時絵に手間をかけさせることを考えると言い出すこともできず、いつも祖父と同じものを摂ることになった。
 ――いつまでこんな朝が繰り返されるのだろう――。
 寝起きでぼんやりとした意識に、ふとそんな思いがよぎった。その朝はなぜか、妙に退廃的な気分だった。
 いやいや。そうは言っても、祖父ももうあと何年生きられるかわからないのだ。そう考えて、気を取り直す。近隣のお年寄りが次々と亡くなっていくなか、施設に入る必要もなく今年九十六歳になった祖父は、浦では希有けうな存在になりつつある。とはいえ、超高齢の祖父が別棟で暮らしている以上、健康状態のこまめな確認は重要だ。その役目を担っているからこそ、尚文のこの家での存在意義もあろうというものだった。
 背が高く、歩幅の大きい尚文は、ものの三十秒ほどで小屋に着いてしまう。小屋の入口はいつも五十センチほど開いているので、盆を持ったまま肩でぐいと引き戸を押し広げ、建物のなかに入った。
「じいちゃん、朝メシ」
 小さな声で、薄暗い板間に向かって声をかける。祖父はもう起きていて、いましがた顔を洗ったらしく、使い込んで茶色く変色した、見るからに不衛生な手拭いでゴシゴシと顔を拭いているところだった。
 まともな電灯もテレビもない、ひっそりと静まり返った六畳一間の板敷きの真んなかに、ぽつんと座卓が置いてある。年老いた祖父は上背のある体を丸め、座卓の前に胡座あぐらをかいて座った。
 ここへ来るといつも、行者のいおりに入り込んだような奇妙な気分になる。または世捨て人の隠遁所いんとんじょとでも言おうか。毎日食事を運んでいる尚文であるが、来るたびにここの寂しくうらぶれた異様な雰囲気には居心地の悪さを覚える。
 小さくうなづくが返事もしない祖父の前に、まだ湯気の立っている朝食の盆を置く。そこから自分の飯茶碗と味噌汁と干物のおかずを取り上げて、手前に移した。
 祖父が飯茶碗を取り上げて箸をつけるあいだに、奥の炊事場に行ってヤカンに水を入れ、ガスにかけてから、祖父と向かい合わせに座る。
 祖父は無言のまま、まっすぐ前を見て、米を噛んでいる。ときどき思い出したように沢庵をつまみ、味噌汁に口をつけ、ゆっくりと咀嚼する。
「あっ、今日は焼き魚がないけー、干物やって。義姉さんが」
 言い忘れそうになっていたことを思い出し、慌てて尚文は言った。自分には関係ないけれど、頼まれたから一応伝えておく、といった空々しいニュアンスが言外に加わる。時絵から伝言を預かったときには、なぜかいつもそうなってしまう。
「そうか」
 祖父の答えはそれだけだった。そのようなことに、特に関心はないようだった。
 おかずの魚のことなど、どうだっていい。わざわざ言い訳しなくてもよさそうなことだ。けれど時絵にとってそれは非常に重要なことであるらしく、頼まれたことを自分の一存で無視するわけには尚文にはいかなかった。東京を引き上げて戻ってきて以来、独楽子の一件といい何といい、この兄嫁にはずいぶんと世話になっている尚文であるから、時絵には頭の上がらないところがある。
 そうしていると、炊事場のほうでヤカンが湯気を上げた。尚文は立っていって、ガスを止め、茶葉を入れた急須に湯を注いだ。二つの湯呑みにお茶を入れると、素手で持って座卓まで運んだ。
 祖父は湯呑みを取り上げると、そのまま両手に抱え、ふうふうと息を吹きかけて少し冷まし、ずずっと音を立ててすすった。まだ熱湯に近いそれを難なく飲み下す凄技を、尚文はいつも感嘆の思いをもって眺めている。
 ふう、と、ようやく人心地ついたような微笑みを浮かべて、祖父は茶を座卓に置いた。そして、
「熱い茶はいいのう」
 と言い、目を閉じる。これも毎朝の習慣であった。
 どちらかというと猫舌の尚文には、祖父の気持ちがわからない。試しに同じことをやってみたが、思ったとおり火傷をした。ただれた口のなかは炎症を起こして、その後二週間のあいだ尚文を苦しめた。
 そういった、何とも気の乗らない朝食を終えると、尚文は静かに皿と茶碗を片づけて盆に乗せる。祖父は相変わらず黙ったまま、シーシーと爪楊枝を使って歯のあいだに挟まった味噌汁のワカメを取っている。
「ほんなら、また晩にな」
 言い残して、尚文は小屋をあとにする。祖父は一日二回、朝と夕だけ食事を摂って、昼食は摂らない。最初は食事を運ぶ役を担っている尚文に気を遣ってのことかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。「一日三回も食うと胃が悪くなる」というのが、祖父の言い分であった。九十六年間も自分の体に付き合ってきた超高齢者が頑としてそう言うのだから、誰も反論のしようがない。その上、信じがたいことだが、こんな歳になっても祖父は一度も病院の世話になったことがないのだった。どうやら骨肉、内臓含め異常に頑健な体をしているらしい。だから、その食生活がベストだと本人が言う以上、家の者も余計な口は挟めず、気をつけながら見守るに留めている。
 日中、本を読んだりネットで調べものをしたり、頼まれた車やバイクの修理をしたりで割と忙しい尚文は、昼のあいだ祖父が何をしているのか知らない。尚文が出たあと、小屋の戸は固く閉ざされて開くことはないからだ。
 朝食を終えて分かれてから、夕食を運んでいくまでの時間を年老いた祖父がどうやって過ごしているのかは謎であった。だが、大体の見当はついていた。午後五時を迎え、夕食の盆を運んでくると、小屋のなかには必ずと言っていいほどアルコールの匂いが漂っていた。日がな一日ここでぼんやりと焼酎を飲んで過ごしているに違いないのだった。
 もともと、あまり酒をたしなむほうではなかった祖父だが、七年前に祖母が亡くなって以来、段々と酒量が増えていった。変わったのは生活環境も同じで、以前はいま尚文が住んでいる母屋の分棟に祖母と二人で暮らしていたのだったが、祖母の死後すぐに、長いこと打ち捨てられていた家の裏の倉庫をひとりで改装し、どうでも住めるようにしてしまった。祖父がその〝庵〟に移ってしばらくあと、独楽子を連れた尚文が東京を引き上げて戻ってきたのだった。尚文は、自分たちがその元倉庫であった建物に住んでもいいと申し出たが、祖父は頑として聞かず、鉄雄夫婦に尚文たちを分棟に住まわせるよう言いつけた。
 祖父のこの突然の奇行に、一番ショックを受けたのは時絵だった。「私のするお世話が気に入らんけ、当てつけのように出ていってしまったんやわ」とすっかりひがんでしまい、世間体を気にして、家の者の前でだけ祖父をなじった。尚文さえも、「近所の人たちやら親戚から私が何て言われよるかわかっちょる? 〝爺捨て山〟やら〝高齢者虐待〟やら言われよるんで!」と、涙交じりに訴えられたことも、一度や二度ではない。あまりに泣き言を言いすぎて、夫の鉄雄に手を上げかけられたこともあったほどだ。
 だが、嫁として世間からそんなことを言われていては、確かに時絵が気の毒であった。それに、何といってもあまりにも突然の祖父の家族との別居に、兄弟も戸惑いを感じずにはいられなかったのである。
「おじい、どげえしたんか。何か気に入らんことでもあったんか」
 まず、鉄雄が祖父の〝庵〟を訪ねて問いただした。だが、祖父は「おう」とか「そんなことはねえ」とか、曖昧な返事を返すばかりで要領を得ない。本人の口調からは、特に当てつけなどといった悪意は感じられなかった。次いで尚文がおもむき、「俺にだけは言うてみてくれんか」と説明を求めてみたが、それもまた徒労に終わった。高齢者のいる家庭に巡回してくる市の包括支援センターの相談員にも話をしてもらったが、施設に入ることを提案したその女性に、祖父はそんなところには絶対に入らないと頑固に言い張った。本人が頭もしっかりしており、身体的な不調も認められない以上、相談員も「当面できることはない」として、引き下がらざるを得なかった。
 とにかく何の前触れもなく、何の確たる理由もなく、祖父は八十九歳のときにひとり裏の掘っ立て小屋に移り住み、その、とても人間の住居とは言えないようなあばら屋で寝起きし始めたのだった。家の者はついに降参し、もう「年寄りの我儘わがまま」として、祖父の勝手にさせておくしかなかった。
 忌避されていると思い込んでいる時絵は意地からでもこの〝庵〟を訪れることを拒んだ。その時絵の手前、独楽子に祖父の面倒を見させるわけにもいかず、毎日の食事や洗濯物の世話は、自然と尚文の仕事となった。祖父の住んでいた部屋に住まわせてもらっている身としては、不平を抱くことのできる立場でもなく、その上人の心の機微といったものにうとい尚文は、毎日のその仕事を淡々とこなしていた。

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