【長編小説】 春雷 10
十二月の声を聞き、クリスマスが近づいてくると、アドニスとのなれそめを思い出さずにはいられない。真咲と咲子の家では、もうずっと、この猫との出会いがこの世界的な祝賀行事を凌駕する出来事として記憶されている。
猫がこの家と直接の関わりを持ったのは、奇しくも五年前のクリスマス・イブのことだった。
まだ名前もなかったその生後半年ほどの茶白猫は、十二月中旬ごろからこの界隈に姿を現し始め、すでにもう一週間近く悲痛な声で鳴きながらそこかしこをさまよっていた。
最初に鉢合わせしたのは真咲だった。商工会に書類を持っていって帰ろうとしていた彼女は、酒屋の倉庫と空き屋のあいだの狭い隙間から、子猫がよろよろと出てくるのに遭遇した。痩せて、小さく、左右に裂けたように大きく開いた口で、鬼気迫るような鋭い声を出して鳴いていた。
あまりにも突然のことで、また猫の形相のあまりのものすごさに気圧された真咲は、つい目を逸らしてしまった。すぐに振り向いて見たが、そのときにはもう猫はどこかに消えていた。
家に帰ったあと、その日の夕食の席で、真咲は今日自分が遭遇した猫のことについて家族に話した。あのあと猫はどこに行ったのだろう。少しの罪悪感が尾を引いていた。
次に猫の姿を見ることになったのは、それから二、三日後のことだった。その日真咲は所用があって泊まりがけで出かけていた。
年末の棚卸しのために、店の薬棚の掃除をしていた咲子は、居間にいる母からスマホに電話がかかってきたことに気づいた。
「何?」
応答して聞くと、母は上ずった声で、
「裏で子猫が鳴きよる。もうずっとや」
と言った。
「本当?」
咲子のいる場所ではそんな声は聞こえなかったので、半信半疑で船着き場側の出口から出てみると、なるほどそこには子猫の姿があった。
子猫は植え込みを囲む一メートルほどの高さの石壁の上に小さな体を縮めて海のほうを見ていた。いまはもう鳴いていなかった。山に向けて傾きかけた西日が、その幼い横顔をオレンジ色に照らしている。
――俺、今夜はどこで寝ようかな――
咲子には、猫がそんなことを考えているように見えた。精悍な顔つきから、オス猫だろうと思った。そして、独りぼっちで心細そうに見えながら、なお逞しく生きていこうとしているその姿に、ある種の感動を覚えた。
再び咲子のスマホが鳴った。出てみると、母である。
「もうたまらん。エサをやれーッ!」
感極まったような命令口調だった。間違いなく先ほど聞いた子猫の鳴く悲痛な声に感情を揺さぶられていた。エサをやるということは、今後この子猫に対してある程度の責任を負うようになることを意味していたが、母は、もう子猫をこのままにしてはおけないようだった。
咲子は家のなかに取って返し、冷蔵庫から夕べ茹でて割いておいたササミとご飯を取り出して混ぜた。どちらもキンキンに冷えていたが、ぐずぐずしていると子猫がどこかへ行ってしまうかもしれない。
深茶色の丸いグラタン皿にそれを入れて玄関を出ると、猫はまだ同じ場所でじっとしていた。咲子が近づくと、ひらりと身を躍らせて公文式の建物と家のあいだの角まで逃げたが、立ち止まってこちらを振り返り、食べ物があるかと気にしている。
「ごはん、食べる?」
咲子は優しく話しかけると、皿を地面に置いた。その場にしゃがんだままじっと待っていたが、子猫は恐れるでもなくすぐに近づいてきて、おっかなびっくりな様子ではあるが、皿のなかのものにがっつき始めた。
よほどお腹が空いていたのだろう、小さな痩せた体でも大口を開けて、冷え切ったササミとご飯の混ぜたものを次々と噛みしだいては飲み込んでいく。あまりにも美味しそうに食べているので、咲子はその姿をスマホで撮影した。
深茶色の皿は、ものの数分で空になった。果たしてこれで足りただろうか、と思ったが、あまり食べさせすぎてもあとで吐いてしまうかもしれない。子猫の体は、おそらく月齢以上に小さかった。
試みに、咲子は子猫の体に手を伸ばしてみた。触らせる。
「慣れてるな……」
野良猫に特有の鋭い目つきをしている子猫の意外な一面に驚きながら、背中をひと息に撫でさすってみる。逃げない。
「あんた、どこから来たん?」
話しかけながら、今度は顔を触ってみた。触らせる。それどころか、自ら頬をすりつけてくる。
調子に乗って、抱っこを試みてみた。すると、嫌だ! と言わんばかりにするりと腕を抜けて前方へジャンプした。
「あー……抱っこは嫌なんな」
笑いながら咲子は言った。しっかり自分を持っているところが、妙に頼もしく思えた。
それから、抱っこを試みては逃げられ、試みては逃げられしているうちに、子猫は少しずつ家から離れていった。
翌朝のことだった。店を開けたあと、玄関を開けた咲子は驚いた。
路上に、子猫が来ていた。まだ幾分遠慮がちで、こちらの出方を探るような疑り深い気配を漂わせながらも、昨日のエサに味をしめたようで、「今朝もゴハンください」と言うように、じっと目で訴えてくる。
「ごはん? 欲しいの?」
また優しい声で話しかけると、いかにもそれに応えるようにミャ~と鳴く。
気がつくと咲子は走って取って返して、夕べの残りのササミご飯を冷蔵庫から出して戻ってきていた。
「またこれだけど、いいかな?」
言うと、もう猫はトコトコと足下に来ている。
差し出された皿から一度も顔を上げることもなく、ササミご飯を綺麗に平らげると、子猫は満足そうに舌なめずりをして、しゃがんでいる咲子の隣に寄り添ってきた。そしてそのまま動かずじっとしている。
黄水晶みたいに綺麗な毛並みだな。
咲子は思った。咲子のほうを見ず、前方をまっすぐに見据えている子猫の横顔は、あざとく作為的なようにも見え、また逆に、どこまでも自然体なようにも見える。
子猫は咲子の側から離れず、側にうずくまったまま寛いでいた。
そろそろ家に入らなければ、と思って立ち上がった瞬間である。子猫もまた、咲子に習って立ち上がった。
「何? おうちに入るの?」
尋ねると、無言の内にこちらを見上げた。妙な心持ちのまま歩を進めると、黙ってついてくる。
咲子が玄関の引き戸を開け、どうするかなと見ていると、子猫はまるでそこが最初から自分の家であったかのように自らの足で歩いてなかに入った。
その瞬間から、アドニスは家の子になった。