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キャンプについて考えたこと

18、19日にかけて、ソロキャンプに行った。ソロキャンプデビューの地、竹田市長湯の天空の杜キャンプ場だ。

今回でキャンプ経験は5回目。そろそろ5本の指に入らなくなってきた(笑)。

1回目と2回目はここ(電源付Aサイトと今回も行った展望サイト)、3回目はまだ記事に書いたり公にしていない高平キャンプ場での姉との“タンデム”キャンプだ(いずれ折を見て書こうと思っています)。そして4回目は、あの思い出深い宮崎は高千穂町の高山、標高1200m(九州で一番高いところにある)四季見原すこやかの森キャンプ場。初の焚火に挑んだのもあの場所だった。

そして、その経験から3ヶ月後、満を持してやって来たのが、我がキャンプ歴の原点、天空の杜キャンプ場だった。

たった5回で「キャンプ歴」などと言うのはおこがましいかもしれないけれど、ひとつひとつの経験に、目を閉じれば鮮やかに思い浮かぶ蜜のような思い出がある場合、それは既に立派な「歴」と呼んでいいのではなかろうか。いずれこれらの“経験”が数限りないものになっていった時、数々の似たような経験が記憶の波のに沈んで判別も難しくなるだろうことは目に見えているのだから。幼少期に抱いた憧憬が生涯を通じて残るほど強烈なように、何ごとも始めたての頃のフレッシュな感覚には、額に入れて飾っておきたいような価値があるものだ。

話を元に戻そう。
初心者ならではの成り行きとして意図せずそうなってしまいがちなのだが、今回5回目のキャンプでもまた、これまでやったことのないことに挑戦した。
キャンプというものを一度もしたことがなかった私にとって、キャンプにおける行動は全て、ゼロからのスタートだった。
テントを張ることに始まり、ランタンの灯りで夜を過ごすこと、地面の上で寝袋に入ってひと晩眠ること、そして焚火……。
今回は、初めてメスティンでご飯を炊いてみるというチャレンジだった。朝、チェックアウトまでの限られた時間に初めての炊飯……さぁどうなる!? とテンションMAXになって行ったものだ。
(どんな結果になったかは、長くなるので後日改めてエッセイで書こうと思っています)

経験豊富な先輩キャンパーさん方から見れば、フフ、と微笑んでしまわれるような些細な一歩に映るかもしれない。
けれど、少しずつであっても段階を追って経験を増やしていくことは、掛け値なしに楽しい。自分がそれ以前よりグレードアップしたと思える喜びは勿論だが、純粋にただそれらの経験が愛おしい。
おそらく人はこうやってキャンプにハマッていくのだろう。

これまでやったことのなかった行動をやってみる時、そのひとつひとつは胸踊る“挑戦”だ。

キャンプに来るたび、何かひとつ、新しいことをやってみたくなる。新規購入したギアを試したり、前回は念頭にも無かった一レベル上の技術にトライしたり。未だ知らぬ季節に同じ土地を再び訪れてみたり。

キャンプはその限りない自由度のゆえに、奥が深いと思う。そしてその“奥”に入っていって見る景色は、例えば職人の修業や伝統文化の担い手の努力のように、厳しく自分を律して究極の技に到達せんとするストイックな種類のものではなくて、自分の匙加減次第でいかようにも出来る広がりを持った探求だ。

自然は優しく、厳しい。その大原則だけをルールに、何千何億ものパターンのゲームを遊ぶ。そして球体のそれほどに無限の側面や表情を持つ自然は、毎回必ず違った形で応えてくれる。

蓋を開けてみなければわからない、開けた時になって初めてわかる「そう来たか」がいつもあるというスリルもある。そして、「次回はこのようにして改善しよう」という創意工夫が芽生えもする。
それゆえに、キャンプには飽きるという言葉の滑り込む余地がない。トライアンドエラーを繰り返しながら生きてきた自分の人生に、重なるものがあるからかもしれないが。

いつか散々回数を重ねてベテランの域に達すれば、「もうときめかない」という瞬間が来るのだろうか、と思う。来るのかもしれないが、今のところはまだまだ全然想像もつかない。
5回では当たり前かもしれないけれど(笑)。

でも、今回つくづくと感じたことがある。

キャンプは「挑戦」であり、別の言い方をすれば、一つとて同じ結果は出ない「実験」なのかもしれない。
そしてそれこそがキャンプの醍醐味であり、心を惹きつけて離さない魅力なのだ。
少なくとも、私にとってはそうだ。

そのことにふと思い到った時、胸を打たれたような気分になったのだった。

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