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【長編小説】 初夏の追想 22

 ――目が醒めたとき、私は床の上に横になっていた。部屋の中に守弥の姿はなく、私の絵画たちが、カーテンの隙間から射し込む朝の光の下でいまや神秘的な力を失い、味気ないその姿をさらしていた。その光景はなぜか、浜辺に打ち上げられた魚の死骸を思い起こさせた。ここで起こったことが、私にはにわかに信じられなかった。
 守弥はどこに行ったのだろう。私は、ドアを開けて廊下に出た。
 屋敷には、まったく人の気配がなかった。そしてまだ、早朝の静けさに静まり返っていた。おそらく柿本が自室にいたのであろうが、眠っているのか、物音ひとつしない。
 私は台所に回り、居間を抜けて、二階にも上がってみたが、守弥の姿はどこにもなかった。妙な胸騒ぎがし始めるのを何とか押し止めながら、私は玄関から外に出た。
 
 ――すると、果たしてそこに彼はいた。
 守弥は、夜露に濡れた庭の木立の下に、ひとり立っていた。あたりはうっすらと霧に包まれ、その細かい水滴が、更に彼の衣服を濡らしていた。
私は近づいていったが、守弥はまるで何も気づかない様子で、自分の思考にふけっていた。私はなおも彼をじっと見守っていた。薄明に透けて見える痩せ細った守弥の体は、妙に非現実的で、自然から生み出される、本来は目に見えるはずのない存在を思い起こさせた。
 しばらくすると、守弥はやおらおもてを上げて私を見た。そんな表情の彼を見るのは初めてだった。……正直に言うならば、その美しさに私は一瞬、息が止まりそうになった。
 そこには、他を圧さずにはおかない強い意志を秘めたひとりの人間がいた。私はそれまでに、これほど強い光を放つ瞳というものを見たことはなかった。彼の病の堂々巡りの中から、どのようにしてこんな生命力に満ち溢れた人間が誕生したのか疑問なくらいに、彼は大きな決意を秘めた瞳で、私を見つめていたのだった。
「……大丈夫かい?」
 私は問いかけた。すると彼は、何でもないとでもいう風に、軽く首を振って見せた。そして小さな声で話し始めた。
「……いま僕は、この世に生まれてから初めて味わう感覚を味わっているんです。この感覚を、いまは言葉でどう説明していいかわからない。ひとつだけ、わかっているのは、夕べあの部屋で、何かが確実に僕に起こったということだけです。……おそらくあと何年か経って、初めてそれが何だったのか理解できるのかもしれない。それくらい、複雑で不可解なことが、いま僕に起こっているんです。……そう、いまでもそれは続いています。……開放感のようなものがあって、気分はすごく軽い。……でも、それとは裏腹に、薄気味悪い、嫌な予感のようなものが潜んでもいるような感じ……。でも僕はこれから先、少なくともここにやって来たときに考えていたようなことは、二度と考えないだろうと思います」
「……ここに来たときに考えていたこと……?」
 私は問うた。彼は顔を下げて、俯いたまま、自分を卑下するように笑った。
「……僕は、ここへ来て死ぬつもりだった」
 彼はなおも微笑み続けていたが、その容貌は、またもこの世のものではない何かのように、遠くのイメージに退いてしまって、私は寒気とともに、あのときと同じ気味悪さを覚えた。
 ここにやって来たときと言えば、言うまでもなく、バルコニーから身を乗り出している私と視線を合わせたあのときである。あのとき彼がまるで亡者のように見えたのは、現実に彼が死と隣り合わせにいて、まさにそのふちに立っていたからだったのだ。
「あのとき、僕と目が合ったこと、覚えている?」
 守弥は問うた。もちろんだ、と私が言うと、
「あのころ僕は本当に参っていて、この世の中なんてどうでもいいと思っていた。医者は僕を間違いなく病気だと言うし、毎日沢山の薬を飲まされるのにも、本当にうんざりしていたんだ。……僕は病気なんかじゃない、、、、、、、、、。わかるでしょう?」
 守弥は上目遣いに私のほうを見た。私は黙っていた。
 守弥は続けた。
「母を、失いたくなかった、、、、、、、、んです。僕は全然、病気でも何でもなかった」
 ――そのことは、ずいぶん前から私にもわかっていたような気がした。なぜとは言えないまでも、彼の目の奥にひらめくもの、気配として、私はそれを無意識に感じ取っていたように思う。ただ残念なことに、周囲の人々はそのことに誰も気づいていなかった。
 守弥は話した。物心ついたときから、母親がいつも誰かほかの人のことを想っているような気がしていた、と。赤ん坊のときに気づいていたんです、と彼は言った。守弥はそのことが理解できなくて、ただ寂しかった。けれど、いつまで経っても母が自分のほうに心を向けてくれる様子はなかった。幼い彼が泣いたり、ぐずったりするときだけ、母の注意が自分に向くことに、守弥は気づいた。そして少しずつ繰り返していくうち、いつしかそれは習慣のようになっていった。
「誰だか知らないけれど、母をほかの誰にも渡したくなかった。僕のほうだけを向いていて欲しかった」
 守弥は目を伏せて言った。そのときからずっと、母の注意を繋ぎ止めておくためだけに、彼は病気の子供として生きてきた。そうせざるを得なかった。困らせたり、面倒をかけたりでもしなければ、彼女は彼のことを見てさえもくれなかったから。
 彼女はいつも遠い目をして、誰かのことを一心に考えているようだった。
「僕はそれを、長いこと篠田さんなのだろうと思っていましたが、最近ではもしかして二番目の兄さんのことなのではないかと思うようになっていました。小さいころからつかみどころのなかった兄がフランスで行方知れずになって、長いですからね。それにこのごろ母の物思いに耽る時間は長くなっていたんです。……僕は、こうやって僕が母を僕の側に縛りつけているから、母は兄を探しに行くこともできなくて絶望しているのだと思いました。そうすると、僕は母にとって重荷になっているだけなのではないかという気がしてきたんです。……もし、そうなら……。そうなら、母を楽にしてあげたほうがいいのかもしれない、って」
 ――ここに着いたら、すぐに死んでしまおうと思っていた、と、守弥は言った。
「……でも、あのとき、楠さんと目が合ったとき……。気を悪くしないで下さいね、でも、あのとき楠さんはとても孤独で寂しそうに見えた。僕は、ああ、この人は僕と同じだと感じて、挨拶をしたんです。そして、あなたとなら、この気持ちを分かりあえるかもしれないと思った。……だから、あなたと会って話をしてみるまでは、死ぬのをよそうと思ったんです」
 これは、恐るべき告白であった。まさか、彼がそこまで追い詰められていたとは思わなかったのだ。そして、私たちが視線を合わせたあの一瞬に、わずかながら彼を死への決意から立ち戻らせた光明が彼の中に宿ったという事実は、私を驚愕させた。
 だが、しかし同時に、私にはわかっていたような気がした。彼が確実に死に向かう存在であるということを。あまりにも繊細に生まれついたがために、外側からどう見えていようと、明日を生きるための確固たる何かを見つけられない限り、遅かれ早かれ死を迎えることになるという種類の人間がいる。そして彼はまさに、そのような種類の人間だったのだ。しかしそういう人間がいったん何かを見つけると、それは彼の人生を航海していく上でのまごかたなき舵となり、そしてどんなに酷い嵐が訪れようとも、彼の船は決して沈没することはないのだ。そのとき彼は、尋常な人間が持っている以上に強い生命力を手にしている……。
 私は、初めて彼に出会ったときすでに、何もかもがわかっていたのではないかというような不思議な気持ちになった。そして、彼のしっかりとした視線に対峙たいじしているうちに、彼こそ、もう二度と人生に迷うことなく、自分の足で立っていける存在だという確信を得た。
 いまや守弥の瞳は、彼の未来に現れるであろう幸福や辛苦に正面から立ち向かうに足りるだけの、あふれんばかりの力をたたえていた。
 彼はきっと素晴らしい画家になる。
 私は確信した。


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