【長編小説】 ヒジュラ -邂逅の街- 5
その街は、静けさに満ちていた――。
人の生活の営みは、高く屹立する高層建築の内側に閉じ籠められ、表通りを歩くときも、ほとんどいかなる生活音も耳にすることはない。たまにすれ違う住人たちも、たいてい男は黙って前を向いて脇目も振らずに歩いているし、女たちは“闇夜”と同じように黒いベールで顔も体も覆い隠し、音もなく影のようにひっそりと歩いていた。何かの拍子に彼女らと目が合うことがあるが、親し気な様子で話しかけられるというようなことはまったくなかった。彼女たちはただ、奇異なものを見たとでもいったような怪訝そうな眼差しを向けるか、瞬時にサッと目を逸らすかのどちらかだった。
玄関の前の道端にときどきお年寄りが座っていることもあるが、彼らは特に遠い、深い眼をしていて、自分の内部世界に閉じ籠っているように見えた。彼らは目の前にあるものを見ることよりも、自分がこれまで生きてきた年月を振り返るのに忙しいようだった。
私は、宿屋エスメラルダの女将に頼んで、市場へのちょっとした買い物や建物のなかの掃除などをさせてもらうようになっていた。このまましばらく宿に居させてもらってもいいかと私が尋ねたとき、女将は人のいい笑みを広げてこう答えた。
「神様の思し召しのままに」
――朝、私は宿屋を出て市場へと向かう。ちょうど市場が開くころのとても早い時間なので、ほかに同じ方向へ歩く人はいない。
市場に着くと、女将が書きつけてくれた買い物の紙を、屋台を出している誰かに渡す。その人は私のために、市場じゅうを回って品物を揃えてくれる。メモ紙には宿屋エスメラルダの刻印がついているので、誰もが親切にしてくれた。女将はしょっちゅう荷車単位の仕入れをするので、どこの店にとっても上客なのだった。
袋に入れられ、笑顔とともに渡された品物を持って、私は宿屋への帰りの道に就く。
自分の足音さえも吸い込んでしまいそうなほど静かな路面を踏みしめながらひたすら歩いていると、ふと耳に奇妙な音が聴こえ始めたような気がした。
それはときおり私を苛んでくる悪意に満ちたあの夜露のような気配を纏っていたが、そうではなかった。しかし、かと言って、この街に着いたばかりのあのとき、気を失って倒れ、意識が戻ったときに、夜露を掻き消すかのように聞こえたあの恩寵に満ちたような声とも違っていた。
それは、ある種の“囁き”だった。
よく人が声を落としてヒソヒソ話をするときのような響きに似ていて、明らかにどこかから発せられているとわかるのに、周囲には誰もいない。私は辺りをよく見回した。けれど無人の路上は静まり返って、実際耳に入ってくるようないかなる音もそこにはなかった。
……私は歩みを緩めながら、自分の足音を潜めて“聴く”ことに集中した。すると、その奇妙な声の波長は、少しずつ感知されるようになり、やがてはところどころまとまった意味さえ成すようになってきた。
それは“言葉”というよりは、“想念の伝播”と言ってもよさそうなものだった。近くから遠くから、街じゅうの建物という建物のあいだを縫って、空中を飛ぶように渡ってくるのだった。
さらにそれは、ひとつのものではなく、複数の性質を持っているように感じられた。あるものは厳しくとんがっていて耳を突いてくるようだったし、また別のものは冷水を注ぐように冷やかで平坦だった。我関せず、とばかりにこちらに背を向けながらも本音では懸命に何かを発信しているようなひねくれた性質のものもあって、それは何だかこそばゆく、むしろ滑稽でさえあった。
いったいこれは何なのだろう? 私には皆目わからなかった。ただ、それらが私に“向けて”何か盛んにメッセージを送っているということだけは確かだった。
――色んな情報を集めて分析するように、しばらくのあいだそれに集中してみると、おおむねこういうことを言っているのだとわかった。
「――あなたは“闖入者”です。我々とは違う。この街に入ってきたら、ここの規則に従うべきです。――あなたは、私たちに溶け込もうとしているのか? いないのか?
外出するときはベールを被りなさい。いまあなたがそうしていることについては、良いと思える」
不安がっているようでもあり、不思議がっているようでもあり、厳しく導こうとしているようでもあった。
私は面食らって思わず空を見上げた。すると、視界の端に、上層階の窓から黒い布を纏った人影がすっと身を引くのが見えたような気がした。
――遠景から臨む街は、奇妙な造形を成している。
日干し煉瓦で作られた高層の建物が乱立する様は、砂漠のただなかに突如出現した珍奇な樹木で形成された林のようだ。あるいは、整然と組織された無数のコロニーから成る白蟻の蟻塚のようだとでも言えようか。
その日私たちは、街から少し離れた小高い丘に登っていた。いい景色があるから、この街にいるあいだに一度は見ておいたほうがいい、とハシムさんが言って、連れてきてくれたのだ。
平らになっている場所を見つけて絨毯を敷き、携えてきた飲み物とお弁当を広げると、ちょっとしたピクニックのようになった。ハシムさんはここでも、私の国に住んでいたころの話をした。雨がたくさん降って、緑が豊富で……。
「空気のなかにも十分に水気が含まれているんだ。あんな美しい土地はない。懐かしいなあ……」
ハシムさんは、思い出を辿るようにゆっくりと目を閉じた。
私とハシムさんのほかに、日干し煉瓦工場でともに働くナディルという青年も来ていた。いつも眠そうな目をしていて、ゆっくりと動くこの若者は、今日も気だるそうに絨毯の端のほうに座っていたが、ちょっとハシムさんのほうに顔を向けて、小声で何かを尋ねたようだった。ハシムさんはひゅっと肩をすくめ、何か短い言葉を返していた。すると青年は呆れたように天を仰ぎ、大きな溜息をつきながら二、三回首を横に振ると、それっきり黙ってしまった。そして、常態である彼の内部の沈黙のなかにゆっくりと戻っていった。
そんな二人のやり取りを見ていた私に気づくと、ハシムさんは人が良さそうに笑って、いまの会話を説明してくれた。
「こいつはね、“闇夜”のことも誘ってやればよかったのに、って言っているんだよ」
ナディルが“闇夜”に関心があるというのは、この前から何となく私も感じていた。確かに、今日彼女も一緒に来られれば、彼にとっては彼女と親しくなれるまたとないチャンスになっただろう。
「でも、それはできないんだ。私が何度も言って聞かせるのに、こいつはどうしても納得がいかないらしい」
ハシムさんは気の毒そうに眉をしかめた。その理由は驚くべきものだった。
「“闇夜”は誓いを立てたんだ」
この街に受け入れてもらうに当たって、住人たちの彼女に関する噂が紛糾していたころ、彼女自身が市長に申し出たのだという。居住を許可してくれるのならば、この街に命を捧げる。この街から一歩も外に出ず、住人たちを不安にさせるようないかなる行為もしない、と。
その申し出は、市長にとっても、現実的に都合のいいものだった。なぜなら巷では彼女についての良からぬ噂が絶えなかったし、なかには違法な薬物を取り扱っているなどといったものもあったので、彼女を外部と接触を持つことができない状況下に置いて管理することは、ともあれ街の住民たちを安心させ、得体の知れない流れ者の女という彼女の立場を、少しはましなものにできる手段になり得そうだったからだ。且つ、これは憶測に過ぎないのだが、とハシムさんは前置きして言った、彼女の犯した“罪”によって、彼女に追っ手が迫ってくる可能性がある。その連中から彼女を守るという意味合いも兼ねているのではないのかな。何よりも彼女自身が隠れていたい様子だしね……。ここは門番が守る城塞の街。ここの内側で目立たずひっそりと暮らしていれば、まず誰にも見つかりっこない。ついでに言うと、ここの住人たちには箝口令が敷かれているんだよ。“闇夜”について、ひと言でも外部の者に喋ることがあったら、即逮捕されるという、ね。
「本当ですか、それ?」
私は目を見開いて言った。
「信じられないかもしれないが、本当の話だよ」
ハシムさんは言った。
――でも、どうして、そこまで――?
ふと、こんな疑問が頭をもたげた。いくら助けを求めて逃げてきたとは言え、一介の外国人に過ぎない彼女を、この街はどうしてそこまで保護しようとするのか……? 伝統的に避難者を匿い保護してきた彼らは、ときにはそれが敵方の者であっても難無く受け入れてきたということだが、だとしても、それがこの街にとっていたずらに混乱を引き起こすだけで、実質的な利益は何ももたらさない女を、街を上げて守る理由になるのだろうか? 私にはどうしても納得がいかなかった。
ピクニックを終え、地面に敷いていた絨毯を丸めて、三人で連れ立って丘を降りようとするころになっても私のなかの疑問は消えず、絶えず頭のなかをぐるぐる回っていた。
折しも丘から見下ろす我々の街の背後に夕陽が沈もうとしていて、背景の空は薄い水色からパステル調のオレンジ色へと移ろっていった。昼と夜とが出会う瞬間の幽玄の光は、蟻塚のような街の輪郭をくっきりと浮かび上がらせた。
――それは、まさしく絶景だった。
眺めるうちに、地平線を占領して真っ赤に燃え始めた夕焼けは、切ないほどの哀愁を帯びながら、遥か彼方から朱色やオレンジ色の光線を照射してこの街を包み込み、その奇怪な姿を荘厳な美に変えていった。その幻想的な光景はあまりにも美しく、私は胸を締めつけられるような気分になった。
そのせいか、つい感情的になった私は、ハシムさんに尋ねてしまった。
「街は、どうしてそこまでして“闇夜”を守ろうとするんですか? 街の人たちは、意地悪な噂話ばかりして、むしろ彼女を憎んでいたんでしょう? 私にはよくわからないのですが……」
すると、突然、ハシムさんの私を見る目が慈愛に満ちたものになった。それは、目に入れても痛くないほど可愛い孫娘を優しくゆっくりと諭す機会に行き合ったおじいちゃんのような、または、彷徨う子羊のように行先を見失った求道者に正しい教えを施し導いてやる絶好の機会を得て嬉々とする先達のような表情だった。ハシムさんは、その豊かな口髭を撫でながら、とっておきの宝物を目の前の絨毯の上にそっと置いて披露するような、晴れがましい笑顔を見せて言った。
「イマームのご意向がある。箝口令は、イマーム御自らが発されたものなんだ」
イマーム。
私はこの街に来て、いや、人生で初めてこの言葉を聞いた。そして、この街の住人に絶対的な影響力を持つらしいこの存在は、そのときはまだ私にとってただの大きな疑問符でしかなかったのだった。