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【長編小説】 春雷 11 最終回

 ――年末の日本映画特集で、たまたまテレビで放映されていた時代ものの映画を、真咲と母は二人で観ていた。咲子は風呂に入っていていなかった。某有名時代小説家の傑作を映画化した、映像の美しい作品だった。
 本編が終わると、そのあとに広告が始まった。往年のミュージシャンのCD販売の宣伝だった。サム・テイラーのテナー・サックスがテレビのスピーカーから流れてくる。
 サム・テイラー。真咲も母もまったく知らない名前だったが、世界的に有名らしいその黒人ミュージシャンの奏でる音は、ふたりのいる居間の空気を心地よく揺らした。
「いいなあ、こんな音楽は。これは何? トロンボーンていうのか」
 母が言った。いやそれはサックスだ、と答えたあと、真咲は思わず、
「わたし、サックスの音色って好きなんよな」
 と言った。母の前でそんなことを言うつもりはなかったのに、優しくくすぐるような暖かい音色にほだされて、つい反射的に出てしまった言葉だった。
 すると、母が思いもかけず、それに同意した。
「いいよなあ、サックスって。うちも好きよ」
 カーペットの上に坐っていた真咲は、思わず振り返ってソファに座っている母を見上げた。
「あと、ギターもいいよなあ」
 続けて、思い出したように母は言う。
「ギターの音色は、いいな。好きよ」
 真咲は意外なことに少々驚きながら返事をした。これまで演歌しか興味がないと思い込んでいた母親が、突然、洋もの、、、のサックスやギターの音色を好きだと言う。……でも思い起こせば、ときどきBS放送で西部劇の映画などが放映されていると、母はそれをひとりで最後まで観たりしていた。父は若いころ、外国の映画や音楽が好きだったと聞いていたが、その影響なのだろうか。
「ときどき西部劇なんか観よるやろ。それって、お父さんの影響?」
 尋ねてみた。すると、
「違うよ。自分が好きなんよ」
 と、意外な答えが返ってきた。
 真咲はポカンとしたが、こんな風に思いがけず自分と母に共通の嗜好が存在していたことを発見して、戸惑いながらもどこかで心が浮き立ってくるのを感じた。
 テレビ画面では、サム・テイラーが体を傾けながら、流線形に湾曲した金色のサックスを口元にくわえて『ザ・バッド・アンド・ザ・ビューティフル』という曲を吹いていた。
 
 アドニスが膝の上で足を組み替えた。その動きは、一度結んだ組紐をわざわざほどいてから結び直すような、手間のかかるものに見える。この猫の足は、子猫時代からすでに呆れるほど長かった。「飼い主に似らんでなあ」と、咲子たちはいつも笑いの種にしていたものだった。いまこのときも、咲子は「あんたの足は」と言って笑ったが、そのようなことに価値も不足も見出さない猫の表情は平常心を維持して固い。
 年が明け、長閑のどかな気分のうちにひと月ふた月と経った、冬の気配の退きつつある温かい夕方だった。ふたり、、、は船着場の前にあるコンクリートの縁石に座っていた。家のなかから抱いて出ると、アドニスはどこへも逃げようとしなかった。外にいるあいだは、自分でそうルールを決めているらしい。あるいは守られているという安心感があるのだろう。その代わり、いったん家のなかに入ると誰にも決して抱かせないのだった。抱っこは基本的に嫌いなのだ、覚えておけと人間に対し態度で示してくる。
 咲子はじっと湾の向こう側を見つめていた。そこには大空を背景にした山々の峰が、まるで大がかりな舞台装置のように連なっている。真咲や咲子が生まれたときから見続けてきた山である。その山が、いまゆっくりと黄昏に沈んでいく。空の色は、鮮やかな青やピンク色が混じったパステル調の混合色から、徐々にじんわりと胸に沁みるような朱色に変化していった。
 こんな空の色のときには、次の日は必ず晴れる。施設に入ってしまって店に来なくなったあるお爺さんが以前教えてくれたことを、咲子は思い出す。
 朱色の夕焼けを少しずつ侵食するように、空の上のほうから藍の色が段々滲み込んで全体を柔らかく染めてゆく。そうすると、空には神秘的な光が満ち始め、昔の西洋絵画を思わせるような見事な色彩が現われてくる。
 夜の闇の訪れる一瞬間前、咲子のもっとも好きな光景だった。
 
 ――とうとう日は暮れてしまって、辺りは夕闇に沈み始めた。いつ点いたものか、背の高い街灯が、強烈なオレンジ色の光を通りに落としている。
 咲子はアドニスの後ろ頭に鼻をつけた。外灯の色と同じオレンジ色の毛のあいだからは、日向そのもののような匂いがする。
 チュッ、と音をさせて、キスをした。猫はおとなしく、されるがままになっている。
「チューは受けるんな。大好きやもんなあ」
 咲子は猫に優しく話しかける。夕闇に隠れながら、ふたりで親密に会話するのを、アドニスも楽しんでいることを知っている。この猫は、人に沿うて生きることを決めた猫だ。
 ――俺は男だからな。チューされるのは好きに決まってる。
 振り向いたアドニスが、目で言い返してくる。自分で言うとおり、しっかりとした男の目をしている。意志を伝えたと見ると、その目は外敵への警戒に当たる本来の仕事に戻っていった。
 
 そのとき突然、湾の真ん中辺りで、ぼらが跳ねた。
 ぼーら一本。
 母親がいつか聞かせてくれた、昔、友人やきょうだいたちと鯔の跳ねる数を数えて遊んだという話を思い出した。
 鯔の跳ねたあとの水面は黒く、外灯の光を受けて影をつくった波紋が同心円状に広がっていった。
 咲子はそれを、ただじっと見ていた。
 波のない、冬の夜に静まり返った湾は、まるで湖のようだった。
 ポチャン。また鯔が跳ねた。
 ぼーらにーほん。
 アドニスの二本の腕を両手でそれぞれ握り、踊らせながら、咲子は口のなかで囃し立てた。
 鯔が続けて三本跳ねるのを見ると、いいことがあるという。母たちが昔唱えていたというジンクスである。
 咲子は特に期待するでもなく、三匹目の鯔が跳ねるのを待っていた。けれど、三匹目はなかなか跳ねない。
 咲子は目を閉じて、思いに耽った。湖の静寂が、湾には満ちている。
 時折、緩やかな波が起きて船を揺すり、僅かに軋む音が聞こえた。夜はとばりを下ろし、瞼のなかの闇はますます濃くなっていくようだった。
 今年もまた、真咲と海水浴に行こう。
 咲子は微笑みながら考えた。去年の夏の海岸での思い出は、鋭い陽射しの記憶を引き寄せて、それに打たれたように咲子は一瞬目眩を覚えた。するとそのあとに続いて、溶けるような気持ちよさが訪れた。
 
 バッシャン!
 
 そのとき、突然大きな鯔が跳ねた。咲子はすぐに目を開けたが、その姿は夕闇のなかで、一瞬、ほんの刹那のあいだ、視界に捉えられただけだった。
 体長五十センチはあるだろう、白い腹と四角ばった頭が、水に落ちる寸前、三日月のような形に反ってきらめいた。
 
 ぼーら三本!
 
 思わず咲子は大声で囃し立てた。思いもかけぬ出来事に、腹の底からほとばしった声だった。アドニスはそれを聞いても微動だにしなかった。肝の据わった猫である。視界のなかにほかの猫や獲物になり得そうなものが入り込んでこないか気を配るのに忙しく、それに咲子を信頼しきっているから、それしきのことでうろたえたりはしないのだ。
 そんなアドニスの後ろ頭を見つめていると、向こうの山の上でゴロゴロと音がした。春を告げる雷が、暮れ切った湾に低く野太く轟き渡る。
 まるで吉兆のようだと咲子は思った。そして身じろぎもしない猫の横顔に頬を寄せて、再び目を閉じた。そろそろ戻らないと母が心配し始めるころなのだが、腹の底に響くような雷の音に妙にワクワクし始めた咲子の心は、まだ立ち上がることを許さないのだった。
 咲子はひとり、その音と振動に魅入られたように、心を泳がせた。
 山や船に取り囲まれた湾の風景、たったいま見たばかりの大きな鯔の残像、アドニスの匂い、そういったものすべてが、やさしい夕闇のなかへ溶け合って消えていった。

 
                 終

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