【長編小説】 初夏の追想 15
……そのときふと、私たちのあいだに、緩やかな沈黙が訪れた。それは、私のような男でもこれまでに幾度か経験したことのないわけではない種類の、あの甘美な予感を秘めた瞬間だった。
彼女の視線が私に注がれていた。私も彼女の目を見つめた。彼女の手がゆっくりとこちらに伸びてきて、そして暖かな掌が私の手の甲を包んだ。
彼女は私の目を見つめたまま、その手を辿って、ゆっくりとこちらに近づいてきた。彼女の顔が、いまではすぐ目の前にあった。私は彼女の化粧と軽い香水の混じった匂いを嗅ぎ、頬のぬくもりを感じた。
――――数秒間、私たちは唇を合わせていた。
私は細かく震え、地面に足が着いていないような感じで、夢を見ているような感覚に陥っていた。彼女の唇は、私がこれまでに触れたどんなものよりも柔らかく、そしてたったいま話題にしていたオランピアの視線さながらに、扇情的だった。だからもしあのとき、二階から守弥と柿本の降りて来る物音を聞かなかったら、私はどうなっていたかわからない。彼女を掻き抱き、湧き上がる衝動に身を委ねていたかもしれない。
守弥たちが降りて来る音を聞いたとき、私たちは咄嗟に身を離した。
彼女は私を見ていた。彼女の顔には、貞淑な妻が心ならずも夫を裏切ってしまったときの驚きも、退屈しのぎに男をそそのかして楽しもうという有閑夫人の背徳的な微笑みも、浮かんではいなかった。彼女はただここではない遠くを見ているような、放心した表情を浮かべているだけだった。何かを探すようにその瞳は震え、やがて寂しそうな陰のなかに沈んでいった。
私はそのことに狼狽したが、守弥たちが台所のほうにやって来たので、彼らに相対さないわけにはいかなかった。
彼らは午前中からずっとキャンバスの上に戸外の景色を写し取ることを試みていたのだが、それに少し疲れて、休憩を入れるために降りて来たのだった。
犬塚夫人は彼らのために軽食を用意し、お茶を入れる準備をした。守弥と柿本はテーブルにつき、自分たちの絵のことについて話し始めた。
朝から降り続いていた雨は、夕方になって勢いを増した。時計が午後四時を回ると、犬塚夫人は夕食の買い物に出かけて行った。彼女のあとを追って行こうかと思ったが、私は何だか気後れを感じて別荘に留まった。
守弥たちは休憩を終えると、また制作に戻って行ってしまったので、私は居間のほうへ行き、ひとりで本を読んで過ごした。だが、頭の中は、先ほどの彼女との口づけのことで一杯だった。
彼女はなぜあんなことをしたのだろう。
……いや、なぜ、私たちはあんなことをしたのだろう?
彼女に責任転嫁するわけにはいかなかった。あのことには、確かに私の意志も働いていたのだから。
彼女は既婚者だ。夫との仲が良くないとはいえ、そして篠田という男とただならぬ関係にあるような雰囲気を匂わせているとはいえ、いったいあれほど簡単に、出会って間もない男とあんなことができるというのか。彼女はやはり、男をたぶらかすタイプの性質の悪い女なのだろうか?
だが私は首を振って、その考えを打ち消した。あのときの彼女の様子からすれば、とてもそんな風には思えない。彼女の表情には、一片の背徳感も罪の意識といったものも見られなかった。彼女はただ、私との口づけで何かを試みようとしているかのようだった。体を離したとき、その瞳は自分の奥深くにある何かを検証するかのように自らの内部を見ていた。そしてその結果が芳しくなかったために、あのような哀しげな表情になっていったようだった。
でも彼女と唇を合わせているとき、確かに私は感じた、彼女が情熱を持って私に口づけをしているということを。だからこそ、彼女の唇の感触を、あれほどまでに扇情的に感じたのだった。それにしても、もしあのとき守弥と柿本が降りて来なかったら、そのあと彼女はどうしたというのだろう……。
欲望は、私の中で渦を巻き続けていた。私は想像せずにいられなかった。彼女を抱き寄せ、より強く接吻し、そして彼女の肩、胸、女性らしく弧を描く豊満な腰に指を這わせている自分の姿を……。
罪な女性だ、と私は身震いした。こういうことをしていてはいけない。だが、今日私たちのあいだに起こったことは、確実に私の中の欲望を目覚めさせてしまっていた。なぜ、彼女はあんなことをしてしまったのか。そして、あの不思議な表情は、何を意味するものだったのか……。
私は考え込んだ。
それからも、私と犬塚家の実りある交流は続いた。三日にあげず篠田が誰か知人を連れて訪ねて来たし、その席で私は必ずといっていいほど画家達の生涯について語ることを要求されることになったが、不思議とそれはまったく苦ではなかった。むしろ、自分の話を興味を持って聞いてくれる人々の前で話をすることを、いつからか私は楽しみ始めていた。私は求められるままに、自分の知る限りの画家の物語を彼らの前で披露した。
――あの台所で起きたことについて、それ以後犬塚夫人は何も言わなかった。彼女はまるで何ごともなかったように振る舞った。そんな彼女の様子に何となく気が引けて、私は何も言えなくなってしまった。――そして、そのまま二週間ばかりが過ぎていった。
その日私は、守弥と柿本が連れ立って森の中へ散歩に出かけるのに付き合っていた。この別荘地には散策用の小道が整備されており、誰でも気軽に森の中へ分け入ることができるようになっている。
梅雨もすっかり過ぎ去り、季節は夏に移行しようとしていた。少しずつ日の入りの時刻が遅くなり、夏至を過ぎたころから、この山中の森では、爽やかで冷涼な風が吹き抜けたかと思うと、入れ替わりにむっとする草いきれに出会ったりする、あの季節の変わり目の時期を迎えていた。
守弥と柿本は、おのおのスケッチブックを携えており、目を引く対象物があると、立ち止まって軽くデッサンを取ったりしていた。
私は木々の複雑に絡みあった枝葉のあいだからこぼれ落ちる木漏れ日を見つめたり、叢を覗き込んで、そこに住む小さな昆虫たちを観察したりして楽しんでいた。
本格的な夏を前に、本当に素晴らしい気候だった。山の澄んだ空気は、いつの間にか私の胃潰瘍を癒やし、いまでは私は服薬を止め、日に二、三回コーヒーを飲むようなことがあっても痛みを覚えないほどになっていた。我々は、これ以上はないというほどにいい気分で、伸びやかな休暇を楽しんでいた。
そんなとき、ふと守弥が言ったのだった。
「楠さん、僕に肖像画を描かせてもらえませんか?」
彼の突然の申し入れに、私は驚いた。自分が絵のモデルになるなんて、夢にも思ったことがなかったのだ。
「最近僕は、人の顔が描きたくてしょうがなかったんですよ。お祖父様に肖像画を描いていただいてから、すっかり面白そうだなと思ってしまって。そして、あるときふと、楠さんの顔を描くことを思いついたんです。そしたら、イメージが膨らんで、どんどん描きたくなってしまった……。どうです? 少しのあいだ、僕のモデルになってもらえませんか?」
「……でも、私なんかより、他にもいるだろう? お母さんとか、柿本君とか……」
私は言った。どうせ描くなら、私のようなしょぼくれたおじさんより、いいモデルはいくらでもいそうなものだ。
「母や柿本さんは、あまりにも見慣れているので……。だから、いまさら描く気になれないというか……。何だろう、楠さんの顔を見ていると、創作意欲が湧くと言ったほうがいいでしょうか。絶対に、いい作品が描けそうな気がするんですよ……。お願いします。是非、僕のモデルになって欲しいんです」
守弥は積極的で、私としても、絵描きの創作意欲というものは尊重するべきなのだろうと思った。それに、彼がそれほどまでに頼むのなら、これといって断る理由もなかった。
私は承諾した。
絵のモデルになるなど、それまでの人生でもちろん経験がなかったし、実際にどうやったらいいのかまったくわからなかった。しかし守弥は、ただじっと座っていてくれればいいと言うだけだったので、私はとりあえず言われる通りにすることにした。
彼が描き始めて数日後、私は犬塚家へ移ることになった。それは最初守弥のアイデアだったが、のちに犬塚夫人の口添えを得るに至った。彼女は、モデルという体力の要る仕事をお願いするのだから、毎日通って来てもらうというのは気の毒だと言って、建物の中に、私のための一室をしつらえてしまった。実際、そのころにはもう私はこの家族の一員のようなものになっていたし、一日のほとんどの時間を守弥のモデルとして過ごすことに費やし、祖父の離れへは、ただ風呂に入って寝るだけのために帰っているようなものであった。母子の肖像画の制作に、最近はますますのめりこんでいる祖父の邪魔を極力しないようにする意味でも、それは悪い話ではなかった。私がそのことを話すと、祖父は筆を持つ手を少しだけ止めて、いいだろうとうなづいた。
私はその翌日、身の周りのものをまとめて、犬塚家の別荘へと移った。